JULY.9,2019

  視覚より聴覚のほうが、いくぶん強烈に空間を構成する(少なくともぼくにとっては)。視覚はけっきょく、文化的なコードや伝統的なコンヴェンションからはなかなか脱け出ることができないけど、音響はもっとなんかこう、バシっと直接くる。視覚的な空間を壊しにやってくる感じ。

  わりと静かな喫茶店のなかで、携帯電話で話す人の声が響くとき、これが不快だなと感じるのは、たぶんそこに別の空間が(あたかもどこでもドアのように)発生してしまっているからだと思う。これは今日あったことなんだけど、話し声というのは強烈で、遠く離れた別の空間を静かな喫茶店のなかにいきなり突き刺してくる。離ればなれの諸場所が相互に“折り重ねられた”ような空間をつくりたいと常々思っているが、これはそのネガティヴなバージョンだ。

  もちろんぼくは、視覚と触覚を対立させるような伝統的な(リーグル的な?)議論を、視覚vs聴覚という構図に置き換えて再演したいわけではない。むしろ重要なことは知覚形式の組みかえであって、視覚や聴覚や触覚といった知覚形式に分化する以前のどろついた感覚を受け止める座としての身体がそこでは問題になる(五感が各々に単独で機能することはありえない)。文化的な、歴史的な、あるいは欲望や運動神経に基づく約束事=コンヴェンションを束ねる身体は、ほとんど呪いのように、未だ弁別されざるどろついた感覚を統括し、知覚の諸形式へと振り分けていく。そうした固定化・制度化した知覚の形式を解きほぐしていくことは、空間のおおまかな枠組みを決定する立場にある建築家の最大の役割だろう。その建物を日常的に使うことで、住み手の身体(があらかじめ規定している諸々の「約束事」)を組み替えること。

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(PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm/F2.4, FUJI PRO400H)