MAR.8,2021

 朝起きて、コーヒーを淹れた。さいきん海老名駅の北側でみつけたコーヒー豆屋のMuuさんの浅煎りの豆で、上品な香りがする。柏にいたころは「雨の日の珈琲」さんによく行っていて、こちらはかなり深煎りだったけれど、浅いほうが好きだ。朝ごはんは、きのう買ったチョコパイを食べた。食パンとチョコクリーム的なやつを買おうかなやんでいたときに目に入ったチョコパイを買ったのだけど、やはりトーストを買っておけばよかったかもしれない。
 先週からずっと調べていた結婚式用のスーツだけど、なかなかこれといったものがなく困っていた。が、今日お店をまわって実物を見ていたら、意外とすんなりこれはいいなというものがあって、えいやと買ってしまった。えいやといって買っていいような値段ではないのだけど(少なくとも今のぼくの収入からいって)、時間もないのでしょうがない。けっきょく買ったのはギャルソンのセットアップで、ぜんぜん奇抜ではないやつだけどよくみるとフォルムが真っ直ぐで、パスっと鉛直な感じ。学部一年生のときに見た小嶋(一浩)さんがこんなシルエットのスーツを着ていたような気がしないでもない、と、試着しながら少し思い返していた(当時はまだ理科大で研究室をもってらっしゃった)。かなりオーバーサイズだったと思うけど。そういえば、講義のときにスケスケの鎖かたびらみたいな上着を着ていた小嶋さんを見て(乳首が思いっきり透けていた)衝撃を受けたのを今でも覚えている。これが東京か……!と思った。あと、一年生が一番最初にやる「光の箱」という段ボール箱に穴を空けて光の状態を実験する名物授業があって、屋上で箱を覗いていたら小嶋さんも一緒に覗いてくれてアドバイスをしてくれたのも、まだ覚えている。

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MAR.5,2021

 いつもより早めに起床すると、想定していたよりも気温が低い。しばらく布団のなかでじっとしているも、入浴剤もあるし、久しぶりに朝風呂でもとバッと起きる。30cmくらいお湯をためてゆっくり入るものの、だんだんとぬるくなっていくのに物足りなさを感じてお湯を足しているうちに、けっきょく肩くらいまでになった。ぽかぽかした状態で午前の仕事をすることができたけど、午後になると急に強い眠気が襲ってきたので、やはり朝風呂はあぶない。

 3、4日に一度くらいお昼を食べにいっている近所の蕎麦屋で天ざるを食べる。明るいおばあちゃん店員が名物になっていて、町の人々によく慕われている。厨房で蕎麦を打っているのは息子さんなのではないかなと思っている。この日の店内はにぎやかで、近所の現場で工事しているだろう職人さんたちがたくさんいた(なんだかんだいって平日のお昼は満席だったりする)。いちばん若い二人組におばちゃんが蕎麦湯をだしていた。これ蕎麦湯っていうの、残ったつゆにかけて飲むとおいしいのよ、と声をかけられた若者たちは、そうなんですね!いただきます!とはじめて聞いたような感じでリアクションをとっていた。天ざるの天ぷらは、ししとう、しいたけ、かぼちゃ×2、えびというラインナップで、どれもかなりおいしい。衣が固くてバリバリしているので、多めにでてくるつゆをたっぷりつけるのに向いている。天ぷらの油と旨味がミックスされたつゆでそばを食べると味がぜんぜん変わっていて楽しい。

 この蕎麦屋のとなりのとなりにはドイツ系のパン屋があり、だいたいここで次の日の朝のパンを買っている。黒くて固くて酸っぱくてなかにいちじくが入っているパンがあり(正式名称不明)、これがおいしい。あと、りんごとくるみのケーキが200円くらいで売っていて、これもおいしい。パン屋と蕎麦屋の並びには他に、八百屋、魚屋、古本屋、カフェ、コーヒー豆屋などがある。ちょっとした商店街みたいな感じで、近所のホットスポットだったりする。

 近くのお店や公園や道や地形はだいたい把握できた。土地が身体に馴染んできた気がする。少しずつ、住みやすい場所だと感じてきた。

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MAR.1,2021

 「ノーツ」ですが、クレジットカードの支払い審査が終わってカードでのお支払いもできるようになったので、ぜひにです。コンビニ支払を設定した方で、支払いを忘れてそのままキャンセルに……という方がけっこう何人もいらしゃったのだけど、これでひと安心、かな。

 NOTESEDITION
 

 早いか遅いかぜんぜん判断できないのだけど、おかげさまで販売予定冊数の1/3は手元から発送することができた。初刷は500部くらいしか刷っていなくて、発売初週のスピード感とかあると思うので、こんなもんなのかなと思う。売れ行きはこれからゆるやかになっていくのかしらね。二刷の予定は今のところないので(誤字脱字多いのでぜひしたいところなのですが)、購入を予定されている方はお早めに。というとなんか催促してるっぽくていやなのだけど……。

 今日は先日撮った書影のフィルムの現像を受け取ったので、スキャンをして、そのままホームページを更新した。近所の裏山で撮った写真がどういう感じになるか不安だったけれど、わりと普通に写ってて安心した。こんな雑草のなかで本が立ってる写真、書影として大丈夫なのか? という感じなのだけど、本書の内容にはむしろフィットしているようにも思う。気になった方はぜひお手にとって、対話を読んでみてほしい。

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FEB.26,2021

 先週の金曜日、久しぶりに千駄木にフィルムの現像にいったとき、店内にたまたま小学校高学年くらいの女の子と低学年くらいの男の子がいた。おそらく兄弟で写ルンですか何かのプリントをしにきていたのだと思う。ぼくが仕上がったものを受け取ったとき、男の子がこちらをじっと見てきて、それはなに? と聞いてきたので、写真をプリントしてもらったんだよ、と答えた。そしたら男の子が、なに撮ったの、と聞いてきたから、袋の一番うえに入っていた写真を一枚取り出して見せた。見せたというか、ぼくもなにが写っているかわかっていなかったので、一緒に見た。

 それは謎の林の写真だったのだけど、男の子はすごく喜んで、めっちゃいい写真じゃん!ぜったい飾ったほうがいいよ!と言った。ありがとうと返した。お店を出て、近くの毛沢東の肖像画で有名なお店で担々麺を食べながら、あんな奇跡のようなことが発生するのだなと思っていた。ほんとうに大きめにプリントして額装してやろうか、とも考えたけれど、ひょっとしたら彼は写真屋の差し金か……?(店長の息子とかで) などと考えてしまう自分のよこしまな心情に気が付き、俺も汚れちまったな……と思った。餃子も食べた。追加で。

 

 今日フィルムをすこしスキャンして、そのことを思い出していた。下がその写真なのだけど、1月7日の日記と同じ場所だと思う。たしかその日に動画も写真も撮ったのだった。少し気恥ずかしいくらいのやたらと大げさな光。でも、日常で不意に訪れる奇跡のような瞬間が、別の奇跡を呼び起こした感じがして、なんだか感動的だった。

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FEB.25,2021

 午前中、裏山で「ノーツ」の書影を撮った。この雑誌は毎回テーマがはっきりと決まっているので、書影もそれに合った場所で撮っていくのがいいのかな、と考えていた。今回は庭がテーマなので、野外で撮るのがいいのかなと思って、天気も良かったし、風もおだやかだったので、えいやと撮った。物撮りってほとんどしたことないのでやり方が全然わからないのだけど、外だとライティングの技術とかは関係ないのでむしろ気楽だ。なるようになれ。

 ちなみに部屋にはあたらしく裏口のドアができて、そこをでるとコンクリートの土間が広がっている。外に電源もあるので、DIYや作品制作にはとてもありがたい場所だ(実際、棚やテーブルを作る際にここで丸ノコ使ったりサンダーかけたりしたけど、非常に便利だった)。この土間の先に斜めの床があって、ここが書影を撮るのにピッタリだった。書影用の場所じゃないかと思うくらいだった。日中はここに、木の影がうつったりしている。

 

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 ちなみに今回の雑誌、左ページがインタビューの記録、右ページが注釈という構成になっているため、レイアウトの際に大幅なカットが必要になった(メモをとれるような余白を大きく取りたい、という思いもあって)。割とがんばって書いた人物解説などはすべてカットになってしまったのだけど、もったいないのでここに掲載して供養しておこうと思う。南無……。これらはカール・テオドール・ソーレンセンの「「庭」の起源」という翻訳文に付した注なので、一緒に読んでいただけると本文の理解がしやすい部分があるかもしれないです。

スティン・アイラー・ラスムッセン(Steen Eiler Rasmusse, 1898-1990)はデンマークの建築家・都市計画家。『経験としての建築』(佐々木宏訳, 美術出版社, 1966)では歴史的な広場や建築だけではなく、コルビュジエやアアルト、アスプルンドなどの近代建築の実例を観察し、それらを形態や様式ではなく、現象という視点から分析している。教え子にヨーン・ウッツォンがいる。

ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers, 1723-1796)はイギリスの建築家。18世紀のイギリス建築界に大きな影響を与えた人物のひとりである。建築史家のH. F. マルグレイヴは、チェンバーズの著書『公共建築論』(Treatise on Civil Architecture, 1759)を「イギリスにおけるパラーディオ主義の終焉を示すもの」(『近代建築理論全史1673-1968』加藤耕一監訳, 丸善出版, p.106, 2016)として位置づけている。本書のなかでチェンバーズは、ある一定の比率=プロポーションに教条的に固執することの非合理さを指摘した。比例に関する相対主義という、本質的に反古典的な態度である。18世紀のイギリスにおいて主題となりつつあった美学理論は、幾何学、対称性、比例といった従来の関心とはまったく異質な観点を前提とする概念──ピクチャレスク──であった。チェンバーズはパラーディオ主義の伝統を引き継ぎつつ、新たな美学理論との間で揺れ動いていたのである。背景にあったのは(イギリスの植民地的関心に由来する)中国に向けられたただならぬ関心であり、チェンバーズが中国について書いた著書の中では、中国庭園の配置の技法について章が割かれている(Ibid., p.116)

ウィリアム・ケント(William Kent, 1685-1748)はイギリスの造園家、建築家および画家。画家としてキャリアをスタートしたケントは、1720年代末には複数の景観整備に関わるようになり、1730年をすぎてからは建築に関心を向けるようになる。当時のイギリスでは、整形的なバロック庭園に対して、非整形の自然美が論じられはじめていた。この議論の重要な方向づけをおこなったのは詩人アレキサンダー・ポープであり、彼自身も「あらゆる造園はすなわち風景画である」という信念のもとに自邸の造園に取り組み、ケントは友人としてそれに協力したとされる。彼らのあいだを取り持ったのは、イギリスにおけるパラーディオ主義の主導者であったバーリントン伯であった。初期ピクチャレスク庭園の傑作とされるラウシャムの庭園では、風景画的な「眺め」を敷地内に複数用意すべく、樹木や彫像、建築物が地形と対応しながら慎重に配されている。

ランスロット・“ケイパビリティ”・ブラウン(Lancelot “Capability” Brown, 1716-1783)はイギリスの造園家。1741年、ブラウンはコブハム卿にストウ庭園の造園家として雇われた。当時、この屋敷の造園を指揮していたのは晩年のウィリアム・ケントであり、ブラウンはケントから多くを学んだとされる。ケントの引退後、彼は主任庭師としてストウ庭園の造園作業を引き継いだ。ブラウンは1750年代の中頃にはイギリスで最も著名な造園家となり、生涯で170以上の庭園を手掛けたとされる。 ブラウンは水や木々、自然の眺望などの自然の要素を取り入れることを好み、同時に彫刻的な要素を導入することを避けた。彼はしばしば小川をせき止めた人口湖を造成し、曲がりくねった小道や等高線に沿ってうねる芝生と組み合わせた。へニンガム・ホールでは、一本、数本、数十本からなる樹塊が100を超える数用意され、多種多様な密度で分散配置されており、これによって邸宅前面に展開する広大な風景に視覚的な変化を与えている。 

FEB.22,2021_ノーツ 第一号 「庭」

 雑誌をだしました。ブログでちょくちょく進捗報告してたものです。長い道のりでしたが、ようやく刊行できました。下のページから詳細をみることができます。発送は3月初旬を予定していますが、すでに予約は可能です。数に限りがあるので、ぜひ早めにご予約いただければと思います。

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https://notesedition.tokyo/

 毎号ことなるテーマを設定し、インタビューと注釈を集めるというコンセプトの雑誌で、名前を『ノーツ』といいます。一年に一冊ほどでペースで刊行しようと考えていて、第一号は「庭」を取り上げました。インタビュイーは庭師であり美学研究者である山内朋樹さん 、都市生態学を専門とする曽我昌史さん、音楽家であると同時に人工知能の最前線に立つ土井樹さん、鳥取の山奥に移住し独自のコミュニティを形成している料理家の城田文子さん。この4人に加えて、写真家の高野ユリカさんに「庭」をテーマに作品の制作を依頼し、C.TH.ソーレンセンの未邦訳の論考の抄訳も掲載しています。高野さんの作品とソーレンセンの翻訳に関しても、「対話」という意識で本に収録しています。つまり、6人の専門家との庭に関する対話を集めた雑誌、ということになります。
 
 注釈は人名や専門用語の解説、インタビュー内容の考察、論文や小説、日記からの引用、写真、イラスト、漫画など、非常に多岐に渡っています。ノート(note)という言葉には記録や注、覚え書きといった意味がありますが、この本は、様々な技術や知識、経験をもった人々との対話の記録と、それに併走するたくさんの注釈を束ねています。だから、ノーツ。

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△ 左ページが対話の内容、右ページが僕らが追加した注釈。両者が常に併走するという形式。プリントは自前のリソグラフで、この二色しか使えない印刷機の特性を最大限活かしたものになっています。岡崎真理子さんと後藤尚美さんによるすばらしいデザイン。
 

 インタビューの実施から文字起こし、編集、図版の制作、注の執筆、校正、翻訳、印刷、製本、ホームページ制作、販売、発送まで、自分たちでやっているのですが、第一号は右も左もわからず、ものすごく大変でした。著者である僕らは無名の建築家で、制作資金もほとんどない状況だったので、ひととおり自分たちでやるしかなかったのでした。流通どうするのとか、いまだによく分かってないことも多く、現在進行形で困っている最中ではあるのですが。

 でも、書籍の制作はたいへん勉強になりました。とにかく編集者の偉大さを身にしみて痛感しました(第二号までに助けてくれる人が見つかれば……と思うのですが)。ちなみに個人的には大学のジャズ研の先輩である土井さんと一緒に本をつくれたことがとてもうれしかった。

 伝はないですが、これから店頭販売を目指し営業もやっていくつもりです。本屋さんに並んで、いろいろな方が手にとってくれるといいなと思います。

DEC.11,2020

 長くお待たせしてしまっていた原稿をようやく出すことができた。一度書いたテキストをカットしたり組み合わせ直したりしていたら、正解がわからなくなってしまい、結局最初に書いた構成に戻る、というあまり意味のないことをしてしまった。文章の構成というのは難しい。それはつまり、いくつかある伝えたい内容の断片の順序を規定するということなのだけど、その順番によってはテキストの意味が激変してしまったりする。たいてい、大切なことは最初のほうに置こうということに落ち着くのだけど。

 12月に入ったけれど日中はあたたかく、散歩日和の日が多い。

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NOV.23,2020_アフタートーク

 多木浩二の写真について語るトークイベントが無事に終わった。収録は2-3時間の予定がまさかの5時間超えで、生放送での継続視聴はかなりしんどさがあったと思うのだけど、前編後編に分割された動画が現在公開されているので、よろしければこちらを見ていただけたら。

トークライブ「多木浩二と建築写真──三人寄れば文殊の知恵」

鼎談した塩崎さんの研究ノートでは当日話題になった重要なトピックがしっかりと振り返られている。必見です。

ひとりの哲学者が撮った建築写真を5時間ながめてみて - 研究ノート

今回のトークは、きっちりと時間を決めてある緊張感のなかで議論するというよりは、時間を気にせず悩めるだけ悩もうという雰囲気で進められた(と思う)。実空間での、観客を目の前にしたいわゆるトークイベント的なかたちだったらば、たぶん目も当てられないくらいにガチガチに緊張してしまっていたと思うのだけど、そういう雰囲気の会では全然なかったので割合リラックスして参加することができたと思う。あるひとつのトピックのまわりをグルグルと旋回するような粘り強さ、しつこさみたいなものには(ある意味でそれは冗長さともいえるのかもしれないけれども)、個人による自宅配信というフォーマットならではの空気感があるのではないか。誰かに見せるための配信というよりも、私的な空間であれこれ話している姿がたまたまWebで公開されているという感じ。ちなみにあらためて見直すと、長島さんのぼくの紹介が、定期的に自分で撮影した写真をアップし続けている謎のブロガーという感じで、すごく笑ってしまった。今後も何かイベントがある際は謎のブロガーとして登場しようかなと思った。

 

 トークの前後で考えたこと、気づいたこと、心に残ったことを、ここに残しておこうと思う(だらだら更新していたら、一週間以上経ってしまった、、)。言語化できないことのほうが多いけれども、ひとまずの記録として。

 

 多木さんのテキストを読み返していて最も印象に残ったのは、1970年の「眼と眼ならざるもの」という論考だった。非常に重要なテキストだと、改めて思った。この論考では、写真(行為)は「私」と「環境」のあいだにあるんだ、そこにとどまり続けるんだということが繰り返し強調されている。たとえば、

どんな写真家も自分のとった写真の上に、自分の痕跡と自分ではないものの痕跡を見出すのであり、自己と他者のふしぎなつながりと断絶という構造が、実は、自らと自らをとりまく環境あるいは世界の関係のあらわれにほかならぬことを見出すときに、写真は単に「見られた」ものの表層の意味によって成り立つのではなく「見る」こと自体が、たんに写真を成立させる現実の契機という以上の意味作用をもってくるのに気づくのである。漠然と「表現」とよびならわしているものの構造である。

多木浩二「眼と眼ならざるもの」,  『写真論集成』, 岩波現代文庫, p.15, 2003(初出: 1970年)

写真は私が見た風景をあるがままに記録したものではなく、つねに「見る」こと自体の能動性が刻印されている。機械と人間の混成、両者のハイブリッドから生まれてくるものが写真であり、だからこそ自分の撮った写真は「自分のまなざしではないが、自分のまなざしと似ていなくもない」という奇妙な二重性のなかで成立する*1。エルンスト・マッハの挿絵は、多木さんのこうした認識をわかりやすく示すダイアグラムになると思われる。ここでは、私が見ている部屋のイメージのなかに、私自身の身体や口ひげ、鼻といったものが書き込まれている。環境に私がレイアウトされているという状況のなかで、環境の一部と私の一部が互いに素材として組み込まれ、ひとつのイメージとして構成される。一枚の写真は、いくらドライに現実を写し取っているように見えても、撮影した人間の主体性(中平卓馬ならば「遠近法」というだろう)と、撮影した人間を取り巻きながらその行動を規定する環境を、どうしようもなくそのつど仮構してしまう。

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△ Ernst Mach: Self Portrait (public domain) / source

「眼と眼ならざるもの」の最後に登場する印象的なエピソードを紹介しよう*2

たとえば風景をとろうとするとき、私は夕暮、車をはしらせたままシャッターを切る。車をとめ、カメラを構えたとき、私の身体からは、走っていたときに生じていた感覚が消えているのに気がつく。私はもうシャッターを切る気がしないで再び車に戻る。走りさる車のなかで私が感じていたことは、ものがとまっていないこと、それがたちまち、自分の視界から消えさっていくことであった。私は動いている視覚だけを問題にする場にいたのである。動いている私の眼が、世界を組織しうるのだが、とまったとき、私の見た世界が組織しようもなくとおのいてじっと身をかくしているような気がしてくる。動いているときには、世界に組みこまれていた。組みこまれると同時に世界をとりこみえた。つまり、私は行動する身体を見出していたのであり、(眼でなくて)この身体が、世界を組織していたのである。

Ibid., pp.49-50

車に乗っていて、窓から見える風景を撮影したいと思った。でも、車から降りてカメラを構えると、その風景はもうすでに存在していなかった。そのとき見た風景は、車に乗りながら高速で動いている身体なしには成立しないものだった。イメージは、動いている私の身体と環境との「あいだ」に存在していた。それは単に私が見た風景でもないし、風景そのものでもなかった。「私」と「環境」とのあいだに挟み込まれているのは、自動車という機械だ。これは、カメラの比喩だとぼくは思う。私、機械(自動車=カメラ)、環境。どれひとつ欠いても、多木さんがここで撮影を欲した風景は存在しえない。むしろこの三者の配分、構成の仕方こそが、写真可能なものの条件となる*3

 撮影者の存在を透明にすればするほど(つまりカメラという装置の自動性を強調すればするほど)、写されたイメージは記録へと近づき、カメラは即物的に世界をうつしとる装置に近づくわけだけれど、それはあくまでフィクションだ*4。「プロヴォーク」において、多木、中平、岡田、高梨、森山、吉増らが明確な運動意識をもって一致団結していた、とはまったく考えにくいわけだけれど、少なくとも多木と中平が共有していた問題意識は、とりわけグラフ・ジャーナリズムにおいて、写真から撮影主体が意識的に疎外されていることの危険性だったと思われる。予定調和的に、ある物語を作り上げるために、「あるがまま」の証したてとして、写真が用いられることへの疑義・批判。そこにあったのは「意味にべったりとへばりつき、意味から出発し、意味に還る既成の言葉のイラストレイションとしての写真を否定する衝動*5 だった。高温現像や月光の印画紙にバキバキに焼きつけることによる「アレ・ブレ・ボケ」は、こうしたある特別な政治的意味合いを含意した「風景」を形式的に破壊する目的で生まれたものである。私=撮影主体の肉体をデフォルメしつつ、意識的に写真に刻印すること。そのためには写真の表面に傷をつけないといけなかった*6

 多木さんが篠原一男の建築に惹かれたのは、同様の問題意識を篠原さんの実践のなかに見出していたからではないか、とぼくは睨んでいる。実際、多木さんと篠原さんの実践はかなり根底的な部分での響き合いがあったのだと思う(こうした建築と写真の出会いは歴史的に見てもかなり稀なことだ)。たとえば上記の「私-機械(自動車=カメラ)-環境」という図式のうち、機械の部分をそのまま建築に置き換えてみればいい。このときの機械=建築は、非人称化された人間のための機械ではない。むしろ、個別具体的なひとりの人間から情念や衝動を湧き上がらせる、そうした機械である。このときに建築化されるのは、「象徴とか装飾とか機能という形相ではなく、物に還元された人間と、全体性との形式とが「激突」しながら生み出す空間であろう*7

 

 シャッターを押し、現像して、様々な仕方でプリントを試行し、慎重に選定して、トリミングやレイアウトを検討するところまでが、多木さんにとっての「撮影」だったのではないか、ということをトークのなかで言及した。このとき、イメージの定着が先送りにされること、それ自体が重要な意味をもったはずだ。というのも、分厚く引き延ばされた撮影行為には、言葉がはさみ込まれる余地が残されているからだ。言葉と写真が相互に依存しながらほとんど同時に生起する(例えば「暗室のなかでのひとりごと」のようなものとして)ような一連のプロセスを、自らの身体を素材にして経験することが、建築の写真を多木さん自らが撮ることの大きな意味だったのではないかとぼくは想像する。

 多木さんはとにかく大量にシャッターを切る人だったそうだから、「選定」はことさら重要な役割を担っていたと思われる。写真との出会いと実践の場が岩波写真文庫であった(つまりは写真集の編纂であり、名取のもとで多木さんがおこなっていた作業は、大量の写真から数十枚を選び、レイアウトし、そこにキャプションを付けていくという作業だったと思われる)こととも無関係ではないかもしれない。

写真はかりに一枚だけ提示される場合でも、二重の意味で選択的な過程を潜在させている。ひとつはすでに述べたことであるが、写真は操作すべき機構が可能な限り単純化しているから、いまや殆ど眼で見たものがそのまま像化されるというかつて夢みられたことに近い状態が生まれ、その結果、主体の動き(顔の向きを変えるだけでもよい)につれて変化するおびただしい知覚された光景はすべて写真になる可能性をもっている。したがって偶然選択されたひとつの視覚は、かりに何らかの理由で選ばれたにせよ、無限の可能性と組になって存在しているわけである。もうひとつはそれとよく似ているが、たいていの場合、使われる一枚は実際に撮られた多くのものから選択されたものである。この場合も一枚は多くの他のものを潜在させている。したがっていずれもの場合も、選択とは、そこにはない別のコードと関係しあうことであり、写真とはつねのざわめく潜在的なものを感じさせるのである。
多木浩二「視線のアルケオロジー」, 『写真論集成』, 岩波現代文庫, p.104, 2003(初出: 1985)

写真を選ぶこと、たった数枚の写真に建築を表象=代表させるという態度は、選ばれなかった無数の写真を蔑ろにするということでは決してない。数枚の写真の潜在性に賭けているのだ。断片こそが、大量の写真を陳列する以上に、受け手の想像力を刺激しうる、と。選ばれなかった無数のイメージを喚起させること、それ自体が、選ばれた一枚の写真に課せられた役割なのだ。

 今回のトークで、『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』という2007年に出版された書籍のために多木さん自身が選定した14枚の写真を注意深く見ていくなかで発見だったのは、組写真的な選定の傾向があるんじゃないか、ということだった。典型的なのは谷川さんの住宅の2枚の写真かなと思う*8

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△谷川さんの住宅(『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』pp.36-37 / pp.140-141)

内観の黒々とした斜面と内壁、外観の真っ白な雪原と外壁の位置がピタリと一致しているのがわかる(恥ずかしながら、これまで全然気づいていなかった)。高いコントラストでプリントされていることで、この対照性はますます強調されている。しばらく2枚の写真を眺めていると、内部にあらわれてくるプリミティヴな架構と、外観写真でポツポツと点在している木々が重なって見えてきて、あたかも内観写真は外観写真のように、外観写真は内観写真のように思えてくる*9

 もうひとつの傾向かなと思ったのは、動きとともに生起する空間を表象したような動的なイメージと、人間の動きや情緒にゆらぐことのない建築性を写し取ったような静的なイメージがセットで選ばれていること。さきほど、私-機械(カメラ)-環境の配分、構成の仕方こそが写真可能なものの条件となると書いたけれど、ここではまさにこの配分の差異こそが篠原一男の空間を捉えている。多木さんの写真は、極端に自らの身体を素材として組み込んだような場合もあればそうでない写真もあったりして、撮影において配分される身体性の割合をシャッターを押す度にアレコレ試しているような印象すらぼくは受ける。これらの写真をして、「これは篠原さんの作品のなかで、いかに写真が撮り難かったかを示す断片である*10と多木さんは語るわけだけれど、それは、このふたつの写真に引き裂かれたような空間のあり方が、実際には“同時”に起こっているからではないかと思う。むしろ、できるだけ矛盾や葛藤が湧き上がるような写真の組み合わせが意図的になされている、ともいえる。この落差こそが、未完の家の亀裂や上原通りの住宅の架構がもたらすショックを提示している。

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△未完の家(『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』p.139 / p150)

 

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△上原通りの住宅(『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』pp.144-145 / pp.146-147)

 もっとも興味深いのは下の2枚の写真だ。『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』には「いくら撮っても一枚くらいしかまあまあというものしかなかった」ものとして7枚の写真が選定されていて、これらはそのうちの2枚。左の写真は、なぜこの写真が特別に選ばれたのかわからないくらい、緊張感のない写真である。悪いということではなく、むしろぼく個人としてはめちゃくちゃ好きな写真ではあるのだけど、他の写真と比べるとかなり異例だなという感じがする。対して右の写真は非常に有名な外観写真だけれども、たいへんに非日常的な光景。

 塩崎さんと長島さんによれば、左の写真は、この本を作るにあたって、横位置の写真から縦位置の写真へとトリミングされた可能性が高いものだという。2007年という段階で多木さんがそのような大胆なトリミングをしていたとするならば、それは個人的にはかなり衝撃というか、重要な事実のように思える(晩年の多木さんの写真に対する判断が、この写真の選定とトリミングを通して例外的に挟み込まれているいる、といえなくもない)。それを事実だと仮定すると、コンクリートの斜材が手前にグンと飛びてくる部分がトリミングされていることになる。架構が強調される部分が丸ごとキャンセルされている。この建築を特徴づけるような部分が切り取られている。キッチンで料理をしていて振り返ってパシャっと撮ったような、何を撮っているかわからない、ぼやけた、虚ろな写真。トークが終わってから、この写真がとても気になって、何度も反芻していた。

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△上原通りの住宅(『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』p.44 / pp.38-39)

 ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」では、その最後の最後で、気が散った状態での知覚をともなった芸術形式の典型的な例として、建築が引き合いに出される。日々の反復的な実践によって習慣が身体に定着したころあいの、かならずしも意識されているわけではない態度での知覚が、とても建築的なことなんだ、と。これは「気散じ」と呼ばれている。

  もともと、時間をかけて理解できるもの、それと気がつかないようなかたちで経験しながらふと理解してしまっているようなもの、そうしたものが重要なのだとは感じていました。それが私のなかにあったものだから、ベンヤミンが同じことを書いているのをはじめて読んだときはとても興奮しました。
 しかし、このような感覚を建築家たちは非常に嫌います。建築家というのは不思議なもので、そんな気散じをしながらのんびりと見られたくないのです。やはり作品として見つめられたいわけです。ところが建築が歴史のなかで果たした役割というのは、人間がそれを見つめることによって起こったのではないのです。そのことをベンヤミンは非常によく知っていたと思います。建築の経験を重ねていくということは、くつろいだ、気散じの経験の蓄積を言うのです。
 たとえば私たちは観光地に行き、名のある建築を眺める、ということをします。でもこれではダメなのです。その建物にしょっちゅう通っている、ということとはまったく違う経験だからです。ベンヤミンは、建築が人間の知覚を根本的に変えていく歴史的な能力は、おなじ空間を頻繁に訪れ、眺め、くつろいだ気分で経験するときにおいて初めて発揮される、と言っているのです。
多木浩二: 映像の歴史哲学, 今福龍太編, みすず書房, p.47, 2013

上原通りの住宅の、左側の虚ろな写真を見て、まさにこの気散じについて、ぼくは思い出さずにはいられなかった。良い意味でも悪い意味でも、建築空間は人間の生を「毎日」という枠組みの中に編成する道具となりうる。その枠のなかでは、人間の活動・行為が、本能的に、意識下の、無意識の、無反省のメカニズムへと変化する。ようは、我々は環境に慣れるという根本的な特徴をもっている。この写真はまさに、慣れきった、くつろぎきった身体をその背後に浮かび上がらせるような写真だと、ぼくには感じられる。と同時にこの写真は、右側の非日常的な、建築の不気味さや汲み尽くせなさを捉えたような写真と共にあるということが重要なんだとも思える。

 『生きられた家』を書いた人が、なぜ非日常的な写真を撮るのか、その意図はなんなのかと、ある時期まではずっと不思議に思っていた。でもそれは、矛盾することではなかった。「環境とわれわれの生との関連が正確な構造で把握されればされるほどある意味で環境との相対的な特質から生の自発性、表層から深層にわたった豊かさの束縛が生じていることが意識され、その結果、生はたえずこの関係を破壊しようとする衝動をもつ*11 ならば、その破壊的な性格を習慣化した身体に喚起することは、建築に課せられたひとつの重要な役割とさえいえるだろう。「くつろいだ、気散じの経験の蓄積」はいうまでもなく非常に重要なことなんだけれども、それと同じくらいに、日常性を破壊しようとする衝動も、とても人間的なことだと思う。多木さんの思想は、どちらか一方に傾くのではなく、この両極が常に意識されているように思う。だからこそ、多木さんが篠原一男の建築に見ていたひとつの希望は、日常への「反省性」を喚起する構造を建築に組み込むことの可能性だったのではないかと感じられる。篠原の建築においてそれは、幾何学を介して発揮される。それは単なる図面に投影された初等幾何学的な図形というものを超え、「それを縫って繊細な精神が生起し、伸縮し、人びとを夢想にいざなう*12 。うまく言葉にできているかはわからないけれど、この2枚の写真を眺めていると、気散じ的に日々反復されていく住宅の経験と、日常を突き刺す穴(まさに建築におけるプンクトゥム的なもの)としての一瞬の経験の、その往還の意味を突きつけられる。

 それは、そこからまた新たな生(活)がはじまる、というきっかけを、確定的に記述できない未知の領域に、いまだ歴史化されない領域に、あらかじめ潜在させておくという無謀だ。そこでの建築家の賭けと勇気は、写真家が大量のコンタクトシートからたった数枚の写真を選ぶ態度と、よく似ているとぼくは思う。

 

*1:このあたりの認識は、中平卓馬の同時期の認識とほとんどぴったりと一致する。多木と中平が共有していた問題意識を端的に表している箇所だと思われる。

世界と私は、一方的な私の視線によって繋がっているのではない。事物、物の視線によって私もまた存在しているのだ。(……)いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は、事物は私に向ってまた物の視線を投げ返してくるのだ。そこには私の視線を拒絶する世界、事物の固い〈防水性の外皮〉がただあるばかりである。(……)写真を撮るということ、それは事物の思考、事物の視線を組織化することである。(……)おそらく写真による表現とはこのようにして事物の思考と私の思考との共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ。

中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」, 『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.p.19-20., 2007(初出: 1973年) 。

*2:ほんとうはトークの最後でこの一節を引用しようと思っていたのだけど、多木さんの写真についてのトークを多木さん自身のテキストで締めるのはなんだか自作自演的かなと思い、紹介できなかった

*3:この配分のもっとも極端な例はヴォルフガング・シュテーレ(Wolfgang Staehle)のネットワークカメラを用いた作品かもしれない。シュテーレの作品においては、「どのように撮影するか」という組織化の段階で徹底して撮影する主体として人間を排除したことが、9.11の現場を「たまたま」記録することを誘因している。

*4:翻って、「記録」としての撮影行為の勘所は、撮影者の存在をできる限り透明にする技術ということになるだろう。上述したシュテーレのような手段(撮影装置の監視カメラ化)を用いないならば、つまり人間がシャッターを押すということに固執するならば、残された道は撮影行為自体を徹底して形式化すること、となる。換言すればそれは、撮影者と鑑賞者のあいだで一定の「約束事」(convention)を共有するということであり、それを可能にする共同体の枠組みを設計するということである。建築写真はその範例である。建築写真を享受するぼくらが、異なる撮影者による写真同士を同じ土俵に乗せて素朴に比較できているのは、高度な技術蓄積に基づいた撮影行為の形式化による。そうした技術が建築文化にとって重要であることはいうまでもないが、とはいえ、「そうではない可能性」もありうるんだということが、今回のトークで、多木さんや作本さんの写真を通して議論されたところだと思われる。そこでは、たとえば、実践を通して定着されてきた建築写真の形式が「撮影を不得意とする」類の建築空間になんらかの特徴があるのか、とか、その結果これまで写真として記録されてこなかった建築空間に一定の傾向があったりするのか、とか、男性写真家が主体となって形式化が進められてきた建築写真において措定される「まなざし」にジェンダー的な非対称性がないのか、といったような問題が改めて浮上してくると思われる。

*5:中平卓馬「記憶という幻影」,『 なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.p.19-20., 2007(初出: 1973年)

*6:しかし、アクチュアルな状況への批判であればあるほど、そのときの「否定の身振り」はスタイルとして消費され、瞬時に陳腐化してしまうあやうさを宿していた。たとえば1970年から国鉄と電通が仕掛けはじめた「ディスカバー・ジャパン」という観光キャンペーンでは、ポスターにアレ・ブレ・ボケの写真が用いられた。

https://www.sankei.com/life/photos/140918/lif1409180013-p2.html

「美しい日本と私」「かくれた日本の発見」といった謳い文句で都心の若者向けに地方への旅行を推進したこのキャンペーンは見事に成功するわけだけれど、背景にあったのは地方と都心のあいだの明確な格差だった。格差があったからこそ、「昔ながらの日本」への回帰を都心の若者に欲望させることに成功したわけだ。他方でこのキャンペーンは、地方への資本の流入をいわば「人質」に取ることで、地方が引き受けていた諸々の問題(当時東北で建設がはじまっていた核関連施設や産業廃棄物処理施設の問題、公害問題、在日米軍基地の問題等々)から若者の眼をそれとなくそらすことにも成功する。こうした中央による地方への欺瞞がもっとも熾烈なかたちで表出していたのは無論沖縄であり、東松照明の後を追うように、中平も集中的に沖縄を撮影することになる。同時期、中平らと同世代の一部の若手建築家は、「閉じる」ことでこうした地政学的な状況に反応しはじめる。

*7:多木浩二「異端の空間」,『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』, p.71,  青土社, 2007(初出; 1968)

*8:なお、今日のブログでサムネイル的に示している2枚組の写真は『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』のページの順番に対応しているわけではないので注意されたい。できるだけ準拠はしているけれど、あくまでもぼく個人がトークを通して気づいたことを示し、記録としてここに残しておくために勝手に併置しているだけなので、ぜひ本書を、テキストとともに参照していただきたい。

*9:谷川さんの住宅を撮った多木さんの写真は夏に撮られたものと冬に撮られたものがある。このふたつの写真も、どちらか一方を参照して他方が撮られた可能性が高いと思う。

*10:多木浩二『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』, p.138,  青土社, 2007

*11:多木浩二「時間をうけいれる建築」, 『視線とテクスト 多木浩二遺稿集』, 青土社, p.43, 2013(初出: 1970)

*12:多木浩二「幾何学的想像力と繊細な精神」,『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』, p.109,  青土社, 2007(初出: 1983)

NOV.10,2020

近所に台湾料理屋があることはずっと前から知っていたが、いったことはなかった。お昼を食べにいったら、700円のランチセットが充実のラインナップだった。天津飯のランチを注文したら、嫌がらせかというくらい量が多かったけど、なんとか食べきった。セットにはミニ台湾ラーメンが付いていたが、これの元祖は台湾ではなく名古屋であることを、ぼくは知っている。また、セットには餃子がふたつ付いているのだけど、揚餃子で、ソースがかかっていて、なんだか釈然としない気分になった。でもおいしかったので、また来ようと思う。

となりのテーブルでは、さっきまで現場にいたという格好のおじさんふたりが、同じようにランチセットを食べていた。テレビではアメリカの大統領選が熱心に報道されている。おじさんふたりは、自分がアメリカ人ならどちらに投票するだろうかということを、真剣に話している。

台湾料理屋は、自宅から西の方にある。海老名の西には相模川があり、それを越えると厚木市がある。いまだに厚木にはいったことがなかったので、天気もいいし、いってみるかと思い、自転車をこいで、本厚木駅へと向かった。はじめてきたけど、郊外っぽい雰囲気は海老名とよく似ている。でも海老名と違って、長く地域に根づいてきた郊外の中心地、という感じがする。駅前の珈琲館に入って仕事の続きをする。窓際に座ったら、とても寒かった。トイレにいくたびに、ペンダントライトに頭をぶつけた。

駅前に本屋があったので立ち寄ってみたら、とても充実していた。地上4階、地下1階で、建築の専門書も売っている。4階には模型材料なんかも売っている。ここらで建築学科のある大学でもあるんだろうか。神奈川工科大学と東京工科大学かな。

ここにきて、以前に一度、本厚木にはきたことがあるじゃないか、ということを思い出す。2019年の4月に、ある幼稚園の見学会できたのだった。本厚木駅からバスに乗って(駅前の公園と一体化したようなバスのりばが印象的で、これがトリガーになって思い出した)、バスから降りて1時間くらい歩いたのを思い出す。帰りもバスがなかなかつかまらず、海老名駅に着いたころにはもう夕方だったはずだ。驚くほど移動に時間がかかって、とんでもなく疲労したことを思い出す。なんで忘れてたんだろう。当時はまったく知らない土地だった訳だけれど、そこに今住んでいるということに不思議な気分になる。

夜になって、相模川を超えて、海老名に帰ってくる。相模川はとても川幅が広くて、いい写真が撮れそうな場所だな思う。本厚木駅と海老名駅のあいだには、厚木駅という小さな駅があって(駅名は厚木なのに住所は海老名市)、この辺りは、以前に来たことがあるような、妙な親近感を感じる場所だった。少しずつ、このあたりでの生活を繰り返すうちに、いつのまにか、土地の雰囲気への愛着のようなものを感じているのかもしれない。海老名とか本厚木みたいな、いわゆる郊外であっても、場所特有の雰囲気みたいなものはやっぱりあって、そこに愛おしさを感じるということも当然あるわけだ。目に見えるのは、何の感動も場所の特異性もない雑多な風景なのに。この感覚が何に担保されているのか、いまいちわからない。たくさんの人がそこに存在している、生活を繰り返しているということに対するリアリティを、どこかのタイミングで感じ始めるのかもしれない。たとえばスーパーにいって、豚肉のこま切れが売り切れているようなときに。

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OCT,31,2020_兄の家の犬

 栃木へとビュンとひとっ飛びして、兄の家の犬(名を茶々という)と面会してきた。芝犬と、ポメラニアン(orテリア系の何かしらの犬種)のハーフ、だったと思う(ちゃんと聞いておけばよかった)。驚異的なかわいさであった。圧倒的であった。まどあどけなさも残っているが、なんとなくワンワンとしての自我が芽生えつつあるという絶妙な時期に会えてよかった。

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△母に抱かれる茶々

 ひとりの人間の一生に、人以外の動物がはいりこんでくるのは、いつごろからなんだろうか、とふと思った。生まれてからずっと、家に犬や猫や鳥がいるというひともいるだろうけれど、ぼくのように、物心がついてから、というひともいるだろう。ぼくの場合は、5-6歳くらいのときに秋田犬(アイコンにしている今は亡きポチ)が家にやってきて、そのことはかなりの衝撃的な経験として、記憶に刻まれている。それこそ、ポチのことを思い出すと、当時の家具の間取りや、音声、6歳くらいの目線から見た町の風景なんかも、断片的だけれど思い出されてしまうくらいに、それはもうかなり衝撃的な出来事だったのだ(ポチの毛の手触りとか、そういう触覚的な経験がなかったら、もしかしたら幼い頃の記憶はほとんど忘れてしまっていたかもしれない)

 自分の人生に、まったく不可逆な仕方で、その存在が織り込まれてしまうということが、ペットがいるということの、大きなことなんだと思われる。その存在をきっかけにして、過ぎ去った出来事を思い出したり、その存在をとりまく音や匂いを(つまりは生き生きとした世界そのものを)思い出したりすること。それは多分お互いにそうで、人間の側からだけではなく、犬や猫らにとっての人間も、そういう存在なんだろうと思われる。

OCT.26,2020

 土日はほとんど、1月に出版予定の同人雑誌の編集と執筆に時間を使う予定にしていた。この本のなかで「エデンの園配置」*1についてのちょっとした解説を書く必要があって(ほんとに100-200字ほどの)、そのためになぜか土曜日にイーガンの『順列都市』を読み始めてしまい(そういえばこのフレーズ、キーワードだったよなと思いだして)、一日が終わってしまった。10年近くぶりにこの小説を読んでいる気がするが、めちゃくちゃおもしろい。ヤバい。一度読んだはずのものでもことごとく展開などを忘れているので、昔読んだSF小説をもいっかい読み直すターンに入ってきているのかもしれないなと思う。発見がたくさんある。

 そんなこんなで土曜日は、めちゃくちゃ良い日だったともいえるし(『順列都市』おもしろすぎでは......? まじ......? となってたし、夜には楽しい食事会もあったし)、仕事的にはなんの収穫もなかった日ともいえるだろう。それを取り返すため、日曜日は朝から広尾の都立中央図書館にこもって資料をひたすら漁っていた。とはいえ、この日しっかりと内容を確認できたのは、イアン・L・マクハーグの『デザイン・ウィズ・ネーチャー』(下河辺淳・川瀬篤美訳, 集文者, 1969; 1994)とメノ・スヒルトハウゼンの『都市で進化する生物たち』(岸由二・小宮繁訳, 草思社, 2020)、あと荒川修作と藤井博巳の対談集くらいだった。ほんとうはもっといろいろと読むはずだったのに、あっという間に時間が過ぎてしまって、自分のスピード感のなさに少し呆れる。感覚としてはあと一週間まいにち、図書館に缶詰めで作業してようやく作業が終わるかどうかという肌感覚なのだけど、そんな時間は捻出できなさそう(一週間に一回行けるかどうか)なので、参ったなと思う。本当に必要な作業だけを集中して進めていくということになるのかな。夜は、両親が上野の展示を見に関東まで来てくれているので、一緒に食事を取った。今日は鎌倉に行くと言っていたので、晴れてよかったなと思う。こんなに見事に晴れたあたたかい日は、久しぶりかもしれない。

 なんだかめちゃくちゃよく寝てしまったし、総合的にはかなり良い休日だったのだけど、仕事はぜんぜん進まなかったので、今週はがんばりたいと思う。月曜日はオンラインの定例が10時半からあって、それが始まるまでの時間で、先週を振り返ったり、今週のタスクを整理したりすることができて、いいなと思っている。

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*1:「エデンの園配置」は、ライフゲーム(有名なセルオートマトンのひとつ)において、「はじめから計画」しないと到達できない配置のことを指している。