DEC.26,2023

岩波書店の『思想』2024年1月号に寄稿しました。12月26日発売。ぜひご笑覧ください。


僕は「重力と歴史──新宿ホワイトハウスの歪んだ立方体」と題して、磯崎さんの最初期の仕事である新宿ホワイトハウスの改修に携わった経験を起点に、建築にとって幾何学とはなんなのか、それが「歪みうる」とはどういうことなのか、といったことを書いてみた。商業誌に2万字弱の論考が載るのははじめてで、しかもあの『思想』ということで、気合を入れて書いた(『思想』は商業誌というかもはや紀要みたいなものだけれど)。思えば、修士〜博論のテーマであった「建築における幾何学と尺度」は、故・柄沢祐輔先生と、磯崎さんの現代的な可能性について議論するなかで生まれたものでもあった。なのでこれまで考えてきたこと・書いてきたことのまとめ的なものにもなっている。ぜひ読んでいただきたい。ちなみにタイトルはスティグレールの『技術と時間』のもじり。スティグレールはこの論考の肝の部分でちらっと出てきくる。

コレクティブを抜けたこともあって、新宿ホワイトハウスの一連の仕事(協働での仕事=コレクティブ・ワーク)を自分なりにどこかで決算しないといけないなと思っていたので、またとない機会になった(編集の押川さんはGROUP脱退を承知の上で依頼メールをくれたので、それもありがたかった)。内容としてはブログに当時書いたこととそんなに違わないとは思う。延長線上にあるはず。大きな違いがあるとすれば、磯崎さんのテキストを読めるものはすべて読んだことだろう。これに関しては原稿依頼がなければたぶんしんどくてやってなかったけれど、収穫はかなりあった。

o-tkhr.hatenablog.com

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僕が原稿にまとめたのは、磯崎さんが立方体に固執するのはなぜか、ということだ。何を書いたのかものすごくざっくりと要約しておく。まず、建築家を建築家たらしめている条件(建築家 architectと建設者 builderの峻別)は端的に知的労働と肉体労働の分離であり、ユークリッド幾何学をはじめとしたギリシアの公理主義の数学を導入したことがその契機となってる。では、建築家が苦心して設計プロセスに導入した幾何学的必当然性がもたらすのはなにか? 論理的推論と、因果関係の機械化だ。加えて、表象システム(図面)を用いた指示体系の構築である。これによって建築分野では施工のオートメーションすなわち建設労働の抽象化がもたらされる(労働の疎外)。建設の合理化にあたり、幾何学を通して、フッサールのいう「理念化」の作用が設計に組み込まれたわけだ。このとき、空間の生産に関わるヘゲモニーも同時に生じてしまう、と。パオロ・ヴィルノのいう「反革命」だ。重要なことは、スティグレールが指摘しているように、フッサールのいう理念化(経験的なものの排除)はつねに、技術的手段を通じた外在化がともなう、ということ(たとえば円の必当然的な性質を共有しうるのは、コンパスという道具を通した外在化がなされるときだけだ)。この外在化は単なる条件というわけではなく、とりわけ建築の設計プロセスにおいては、形式や形態のある種の発展力のようなものをもたらす。理念化による自生的秩序の排除は、タブラ・ラサからの生成を可能にするひとつのきっかけでもあるのだ。

以上のことを原稿では「革命と反革命」と表現した。磯崎さんは、建築の根源に、無根拠によってもたらされる政治的抑圧と生成力の両面があることを誰よりもよく理解していた稀有な建築家だった。とはいえ磯崎さんの変なところは、こうした根源的無根拠さを「設計プロセス」に埋め込もうとしたことだ(必然的に新はSHINとARATAに分裂する。この分裂の理論化がデミウルゴモルフィスムだ)。この訳のわからない試みは、ネオダダの方法論(宮川淳がいうところの、「マチエールとジェストとのディアレクティクにまで還元されることによって、表現過程が自立し、その自己目的化にこそ作家の唯一のアンガージュマンが賭けられるべきであった」もの*1)そのものだった。新宿ホワイトハウスに、ここでまた回帰することになる。

磯崎さんはおそらく、この反芸術的な身振りが、判断基準が喪失した時代における建築家の政治的決定権(プロジェクトをある局面での切断する権利)の確保に有効だと直感したのではないか。これは幾何形象を素朴に空間設計の道具とすることとはまるで次元の違うことだ。引き受けている歴史の重みがまったく違う。これを理解しない限り、磯崎さんの実践の評価が正当になされることはないだろうと思う。そして当然、立方体が「歪みうる」ことを引き受ける我々世代の仕事もまた、こうした認識を前提になされる必要があろう。詳細はぜひ『思想』で。

字数の関係で書けなかったことがけっこうあった。たとえば磯崎さんのデミウルゴモルフィスムがなぜパエストゥムではじまりハンネス・マイヤーで締められるのか? ということ。これはめちゃくちゃ重要なのだけど、泣く泣くカットした。もしいずれ単著を出す場合は今回の論考はしっかり加筆修正して入れたい(だれにも求められていないのだけど、いずれ文章をまとめた単著を出したいなと思って、ひとりで色々準備してみている……)。

*1:宮川淳『絵画とその影』みすず書房、二〇〇七年。六〇頁。