DEC.23,2023

今週は、大学では卒論の中間発表があり、私生活では妻が参加している山水をテーマにしたコレクティブ・山水東京の展示「アーバン山水」の仕込みと撤収に付き添ったりしていた。

sansui.space

 

山水東京の主宰はランドスケープ史が専門の近藤亮介さん(近藤さんには度々お世話になっている)。今回のkudan houseでの展示は前回の展示の内容をまとめた書籍の発売にあわせたもので、3日間しかなくてもう終わっちゃったのだけど、たいへん充実していた。個々の作家の関心や作品の内容はバラバラなんだけど、ある水準での共通性は確かに見出しうる、というバランスがとても良いと思った。エンヴェゾーが言っているように、コレクティブには長きに渡って協働し作家性が個々のアーティストよりもむしろグループに帰属するタイプ(長期的な協働+集団的主体性)と柔軟で非永続的な協働関係を重視しプロジェクト単位でのコラボレーションに力点を置くタイプ(機会的な協働+個人の主体性)があると思うけれど*1、山水東京は後者にあたるのだろう。ここで重要なのは、協働の起点が場所(たとえばスタジオやアトリエの共有など)でも縁故(知人友人的あるいは先輩後輩的なネットワーク)でもなく、月一くらいのペースで近藤さんが企画している勉強会やフィールドワーク(様々な専門家を招いて山水について考えるという)にある点だろう。制作の前段階のインプットの共有あるいは制作のための環境の構築という水準での共同性。これによって、バラバラだけれど一貫しているという不思議なまとまりがもたらされる。すでに価値が定まったものを選別するのではなく、むしろ事後的にキュレーションの枠組みのようなものが(作家の実践を通して)浮かび上がっていくものとして、近藤さんは山水東京を企画しているのかなとか考えていた(主宰者が研究者・教育者でもあるということも大きいだろう。一種の教育プログラムとしてのコレクティブ)。

今週は東京滞在に合わせて府中市美術館の白井美穂さんの個展にも行ってきたが、先週の豊嶋展に続き、こちらもかなりおもしろかった。以下は個人的にすごく良いと思った立体作品についてのメモ。

まずはオレンジ色のスキー板と、自立したポールに看板を取り付けた道路標識的な立体を組み合わせた《前へ前へとバックする》(1989年)(詳細は以下のリンクで確認することができる)。

www.tokyoartbeat.com

オレンジ色のスキー板は菱形に4つ置かれていて、スキー板が示す運動および速度が弧をなして閉じ循環している。ポールには水平方向に90度回転させたふたつの看板が取り付けらていて、ひとつはオレンジ色、もうひとつは鏡面仕上げで、鏡はスキー板を映すよう設置されている。このX軸方向とY軸方向に設置されたふたつの看板は上下に隔てられているのだけど、この開きの寸法が絶妙で、近くで片方を見るときに、ちょうどもう片方が視界から外れるよう設計されている。90度回転している効果も大きく、実際の経験としては、一方をみるときに他方が「消える」という印象を受ける。鏡看板を見るとオレンジ色のスキー板が映っているが、今は見えていないもうひとつのオレンジ色の看板が(スキー板と同じ色ゆえに)想起される。逆に、オレンジ色の看板を見るときには鏡の看板が消えている。が、オレンジという色が、となりに横たわるスキー板を、そしてスキー板を反射している鏡を想起させる。いずれにせよこの作品を鑑賞すると、オブジェクト同士の関係性のなかに「巻き込まれる」という感覚を覚える。この感覚の成立は、片方をみるときに他方が見えないという状況すなわちスケールの設定に強く起因している。見えないがゆえに、色彩を通じた想起が生じる、と。そして鑑賞者の想起こそが、スキー板→オレンジ看板→鏡看板→スキー板……という循環を成立させるための結節点となっている。この知覚と想起の循環は、スキー板自体が示す閉じた運動の円環のようなものにとてもよく似ている(道路標識の看板もまた、ある速度の持続、一方向への運動を強く喚起させる)。

source: https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/mio-shirai-report-202312

 

もうひとつはベルトコンベア(あるいは動く歩道)みたいな感じで、表面が動き続ける立体作品《斜辺》(1993年)。これも強烈だった。三角柱状の立体で、斜面がベルトコンベアになっている。

source: https://mio-shirai.com/works/works-1987-1999/

ベルトコンベアが周辺視野がもたらす影響はかなり大きく、この立体があることで写真をみるときに床がずるずると動いているような感覚を覚える(展示室全体が動いているような感じ)。これによって写真の性質がまるっきり変わってしまう。先ほどの《前へ前へとバックする》とも通じているのだけど、要するに、視覚が対象化している情報以外の地の部分の役割こそが制作の主題になっている。地(ground)の、図(figure)への介入の過剰さ。

*1:Okwui Enwezor: “The Production of Social Space as Artwork: Protocols of Community in the Work of Le Groupe Amos and Huit Facettes,” in Collectivism After Modernism: The Art of Social Imagination After 1945, University of Minnesota Press, 2007.