DEC.17,2023

アウレリの新刊‘Architecture and Abstraction’を少しずつ読んでいる(といってもすでに読んだことのある内容が多い)。

mitpress.mit.edu

アウレリが第一章の冒頭で計画=プランと企図=プロジェクトの違いについて触れている箇所が興味深く、引っかかった。まず、いうまでもなく建築設計という枠組みにおける創造性は、有形物の建設に携わるあらゆる人々が共有する「計画=プラン」として機能する。プランは、まずもって心象として、次に施工者が従うべき一連の指示・表記として、建築物を抽象化したものとして生じる(「抽象」という作用はあくまで結果として生じたのだ、という認識は重要だと思う)。プランは単に建築を抽象化したものではなく、一種のアルゴリズムあるいは指示書としての側面を担っている。建築の設計者はプランを用いることで指示体系を構築し、建設プロセスを組織化しようとする。つまるところ建築の歴史とは、人的・物的資源を動員した物理的構造物の建設における計画=プランの歴史として理解することができる。

当然のことながら計画=プランの重要性は建物の規模、複雑さ、あるいはその永続性が増大するにつれて高まっていく。そして高度な計画=プランに求められるのは、いうまでもなく、労働力と資源の正確な予測とその調整だ。ゆえに計画=プランの作成・遂行は、建築家の政治的決定権の前提条件となる。そして、タスクの複雑さが場当たり的な解決策では立ち行かなくなるとき、多数の計画の立案とその精密な戦略的実行が要請される。計画=プラン群は「企図=プロジェクト」となる。

プロジェクトの遂行が建築家という職能を誕生させる。どういうことか。たとえばブルネレスキは本来100年はかかるであろう巨大なドーム(クーポラ)の建設を、多数の技術革新と画期的な現場管理手法の開発・遂行によって20年弱にまで「圧縮」してしまった。よく知られているが、ブルネレスキは単に設計図を書いただけではなくて、企図=プロジェクトを成立させるためにありとあらゆることをした。建設時間の圧縮は、巨大建築物の「作者」を個人名に帰する重要な動機となる。