AUG.16,2021_多摩D

 多摩動物公園に初潜入する。人が全然いないからか、場所がとても余っているように感じる。エリア同士の距離感にとても余裕がある。鳥類、とくに猛禽類が充実していた。オオワシやイヌワシなどがたくさん生活している巨大なゲージがあるのだけど、こんな場所は他の動物園では見られないように思う。オオワシは本当に大きかった。ちょっとゾクっとする大きさ。
 動物、というより生命一般の存在によって生じる距離や大きさの問題はとても興味深く感じる。距離や大きさを、実際のそれよりも過剰に知覚してしまう。遺伝子レベルで刻まれた動物への注意みたいなものが、知覚に強烈に反応している、というような。土とか木とか、そういうものとは明らかに大きなギャップがある。空間を語るとき、こうした(各存在者に私たちが異なる仕方で向ける注意の)質的なギャップが語られることは少ない。

 梶井基次郎の『檸檬』のなかの本屋で檸檬が爆発する空想を、急にいま思い出している。檸檬には得体の知れない爆発的なエネルギーが詰まっており、内部には空間が過剰に圧縮されている……と主人公は考え、自身の空想の素材にする。空間は質的な差異をもった個別的な存在者から“展開”するものだ、というシーンだ(と勝手に僕は考えている)。オオワシはまさに得体の知れない何か──未来へとさし向けられた可能性のようなもの──が過剰に詰まった存在であり、だからこそ「大きい」のだ。この得体のしれなさを棚に上げたまま、たぶん大きさとか距離とか愛とかを語ることはできない。
 そういえばこのフライングゲージでは、仲睦まじくしているイヌワシのつがいのあいだに一羽のヒメコンドルが割って入り、片方のイヌワシを木からえいと落としてその場の空気をなんか気まずい感じにして去っていくということがあった。(そんなことはないのだろうけれど)「リア充爆発しろ!」的な行動にしか見えず、おもわず胸がじんわりと熱くなった。

 雨がパラパラと降っていたので、多くの動物は室内に入っていた。外にいる動物もみな、中に入りたがっていた。みんな雨は嫌いみたいだった。

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(雨の影響でオオワシの写真撮ってないのである……)

 そういえば昨日「プレイタイム」について少し書いたけれど、この映画に出てくる建物群が醸し出す雰囲気がアリソン&ピーター・スミッソン夫妻のエコノミスト・ビルに似てるなーっと思ったことを書き忘れていた。たぶん配置の問題(あの映画に出てくる空間の異様の原因は、たぶん配置の問題なんだ)。ガラスの反射が特徴的な建物でもないし、そもそも行ったことないけれど、ぼくのなかでは近しいものとして感じられた。絶対に好きな建物だと思っている。現地で確かめたい〜。

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©Patrick at made-by-architects.com