AUG.18,2021_田んぼの原型

 昨日の夜につくった6種類のおかずから2種類を選んでご飯にのせ、お昼とした。6種類もつくったのに、うまくいったと納得したのはひとつだけ(ナスの肉味噌炒め)だった。午前中は昨日から引き続き雨がときおり降っていたけれど、午後になると夏が帰ってきたような晴天になる。午前中から、くるぞ…これはくるぞ……と夏が帰ってくるような少しむしむしとするような風が吹いていたが、やはり、急激に気温があがった。仕事が終わっても日はぜんぜん高かった。久しぶりの良い天気に興奮して、勢いで自転車を走らせて相模川までサイクリングに出ると、大雨の影響で水位がかなり上がっていて、河川敷の植物がほとんど水に浸かっていた。田んぼの原型みたいな風景が広がっていた。氾濫農耕(洪水が引いたあとの肥沃な土地に作物を植える農法)のときの風景ってこんな感じだったのかもしれない、と思いテンションが上がった。相模川で、水平線まで水たまりが広がっているナイル川の河川敷に思いをはせる。

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 以下、『ノーツ 第一号 庭』に掲載したカール・テオドール・ソーレンセンのテキスト『「庭」の起源』からの引用。人工的な灌水こそが、庭の原型だという議論。

庭とは一体何でしょうか。おそらく在来植物を、その領域の外よりもよりよく栽培できる場所、または、現地の植生とは別の環境を必要とする外来植物を耕作できる場所として定義できるでしょう。

庭は古い文化的形態のひとつであり、なかでも最も古いたぐいのものかもしれません。住居の遺構と同じように先史時代の作庭の痕跡が見つかることは考えにくいのですが、庭がどのように発展したか想像することは難しくありません。(……)後の才能ある人々が新たに耕作地を囲い込むためのよりよい方法を見つけたのは、当初の囲いの発明から遥かあとになってからと考えられます。しかし、どのような順序で改良が加えられたのか、今後明らかになることはないでしょう。柵を発明した庭師の後に続くように、除草を発明した人が現れたのでしょうか。食用の植物を植えるだけでは育たないこと、つまり、栽培物が他の不要な植物により成長を妨げられていることに庭師はすぐ気がついたはずです。除草の発明には、数千年は要されたのではないでしょうか。植付けや種蒔きが最初に行われたのは、多かれ少なかれ最初の除草と同時代であったと考えられます。単純な囲いの発明から次の段階に進むまで、1万年から2万年、ともすると5万年にもおよぶ途方もない歳月が費やされたことが想像されます。しかしいったん種蒔きや植付け、除草が開始されると、発展は一気に加速しました。囲いが改善され、何らかの方法で入口の問題が解決し、人間は列状に種蒔き・植付けを行うようになりました。従来は円形、少なくとも角を持たなかった囲いは、自然と正方形もしくは矩形へと導かれました。かくして人間は土壌の改良をはじめました。不要な植物を排し、石を取リ除き、よくほぐされた土壌でこそ植物は最も育つことを発見したのです。

上記のような発展は食物採集者のような非常に原始的な人々の間で生じたと考えられます。そうした中、新たな灌水方法を発明した天才が現れました。ここから話はより複雑になります。初期の人類は河川や湖の海岸沿いに定住しており、多かれ少なかれ生じる定期的な水位の変化は、特定の植物、たとえば米にとってとりわけ良質な生育環境を生み出しました。これによる住民の急激な増加にともない、新しい入植地に移住する、もしくはその土地をより良い環境につくり変える必要が出てきました。このころ人間の考察力は向上していたため、自然に流れ込む量を超えた水が人工的に送られる庭を考案することは、それほど難しくもなかったでしょう。こうして人工的な灌水は恐らく同時多発的に発達し、他の変化がこれにともないました。より多くの種類の動物が家畜化され、これまでとは異なる方法で利用されるようになり、より発展した住居が洞窟や小屋に取って代わりました。言い換えれば、原始の人間は移動をはじめ、自然の征服という偉大なる勝利を収めたのです。原始の時代は夜明けを迎えようとしていました。

『ノーツ 第一号 庭』井上岳・大村高広訳, ノーツエディション, pp.106-108, 2021.  

 

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読みたい、読みたいと思いつつけっきょく読めていない「望郷太郎」。本屋でまとめ買いしようと思ったら2巻だけないとか、1巻が抜けているとか、そんな理由でまだ買っていない(話題の漫画あるあるかもしれない)。おじさんが主人公の漫画、だいたい好き。