SEPT.17,2020

 べつに、それほど大きな変化をこうむったわけでもないと思うのだが、掃除を終えた翌日の自分の部屋は、以前とはまったく違ったふうに見えた。それは一階のはなしで、二階はあいかわらずのはちゃめちゃさで(段ボールの残骸、貼り散らかしたテクスチュア、木パネを作った際の丸ノコと木屑、ゴミ袋、ペットボトル、紙屑等が所せましと転がっている)、目が覚めるたびに呆れかえるのだけど、これはこれで、朝のまどろみからバッチリと意識を覚醒させてくれるので悪くはない、と思う。

 掃除を終えた一階から感じる違和感は、長旅から帰ったあとに訪れる自室の感じに近いかもしれない。完全に把握していたはずの部屋の大きさや光の感じも、まじまじと見ると、どこか違和感がある。

 役所やホテルのカウンターなど、他人がまじまじと見ている前で、絶対に間違えてはいけないというような状況で、完全に記憶しているはずの電話番号や住所を注意深く書くことを求められる時に、はっきりとおぼえていたはずの記憶が朧げになるということがある。絶対に覚えていたはずの「243-0418」という郵便番号に、だんだんと自信がなくなってきてしまって、けっきょく、amazonのお客様情報で正確な情報を確認する、ということがある。これも、個人的には、掃除のあとの部屋の違和感に近いと感じられる。

 注意深く見れば見るほど、慣れとともにこの身に親しんでいたものが、どこか得体の知れないものになる、ということだろうか。一階の違和感がどこか、自らの住所に感じる違和感と近いと感じてしまうのは、「あらためて見る」という態度それ自体に原因があるのではないだろうか。あらためて見ることを強いているのが大掃除であり、役所のカウンターの緊張感なのだろうと思う。

 一部の優れた住宅建築には、「あらためて見る」ことを自然発生させるようなアイデアが実装されている。慣れ親しんだ生活空間に定期的に亀裂を挟み込むような工夫、といってもいい。住宅の設計の肝はこの感覚だよな、と、今朝、一階に降りてコーヒーを飲みながら考えていたのだった。