27 DEC. 2021 GUNDA

新宿のシネマカリテで『GUNDA』をみた。農場で暮らす母豚グンダを軸にしたドキュメンタリーで、セリフの類は一切なく、画面はモノクロで、人間は間接的にしか登場しない。画面に映るのは豚と鶏、牛、あとは自然環境と機械だけだ。動物の身体に光が当たって、表面の凹凸が影になって浮かび上がる。動物たちの質感そのものから目が離せなくなる。音も素晴らしかった。(おそらく)かなり編集された音で、身体の擦れや息は相当に誇張されていると思うのだけど、しかしそれらは現実感のあるものとして聞こえてくる。

この映画の、動物への(というか、動物が経験している思われる世界への)没入感の要因は何なんだろうと、観賞後に考えていた。ひとつは動物たちがカメラの存在を意識していなかったことだと思う。どうやってるのかは想像もつかないけれど、おそらくドローンなどの最新技術を駆使しつつカメラを設置・移動しているのだろう。しかしどのカットの画角や画面構成、光の状態も決まりまくっていて(写真作品としても成立しそうなくらい)、隠し撮り的な映像のクオリティではまったくない。

カメラの高さは常に動物の目の高さに合わせられている。高さだけではなく、速度もまた、動物によって変わる。たとえば豚のシーンではそれほど人間とは変わらない時間感覚なのだけど、鶏のシーンになると木々の揺れや環境音が0.7倍くらいの速度で再生されるようになる。それは鶏が知覚している時間感覚をかなり厳密に再現している、ように思えた。鶏は歩きながら、通常の時間の速度では聞き取れないような声で、歌うように鳴いていた。それは異なる身体による時間の感覚、景色の見え、音の流れのようなものが確かに存在していることを強く認識させるもので、強烈だった。母豚の世界、子豚の世界、鶏の世界、牛の世界……と、異なる身体性をもった複数の動物、によって生きられた世界を遷移しつつ、非人間的な世界への強い没入感のなかで、彼らの世界に暴力的に介入する人間の論理(家畜としての動物たちの生)をこの映画は観客に直面させる。そうした構造をもった映画なのだけど、とはいえ、ヴィーガン的な思想の押し付けがましさや啓蒙主義的な雰囲気は全然なかった。ものすごく周到に準備されている(おそらくかなり恣意的な演出も入っている)けれど、印象としてはドライに現実を映している、という。

 

前述した無人によるカメラやマイクの設定が可能なのは、母豚グンダをはじめとした動物たちがあくまで「家畜」であり、彼らの生がある程度「計画されたもの」だからかもしれない、と個人的に強く思った。彼らの生が「映画化可能である」ということ事態とても残酷なことで(それはつまるところ彼らの行動が常に予測可能であることを意味している)、その残酷さがこの映画の質の高さの背後に常に張り付いている。そしてドキュメンタリーというかたちをとっているからこそ、計画された生の内部にも確かに存在している計画外のハプニングの数々やそこに流れる時間の厚みこそが、胸に迫ってくる。

‘domestic’(家庭の)や‘domesticity’(家庭的雰囲気)の語源はラテン語の‘domus’(家)たが、これは‘domesticate’(家畜化)の語源でもある。家庭的な領域には常に特定のヒエラルキーを構成する一連の力関係が存在している。「家」はその発生当初からずっと、一方で従属的なある関係性を、すなわち家父長の存在を前提とする共同体だった。そして「家畜」とは結局のところ、そうした家の論理の、非人間への暴力的な適応の結果として生じた存在だ。だからこそ、家畜の生の残酷さは、そっくりそのまま人間自身の家庭生活に潜んでる不気味さの方へと跳ね返ってくる。

逆もまた然りだ。建築をやっている人間のひとつの使命は「家」にまつわる既存の様々な抑圧を解体することだと思っている。そしてそれはまた、非人間への家の論理の適応という暴力性を、自身の生の中でどう引き受けるかということにも通じる。‘domesticity’と‘domesticate’、その両方が同時に問題となる。