JULY21,2018_オブジェクト指向存在論①

○10年という年月は、長いのか短いのか。10年前そこにあったものは、大抵まだそこにあるように思うのだけど、それはただ、失っていることに気づいていないだけかもしれない。と、この写真をとったときにはたしか、「記録する」ということに関して考えていた。

f:id:o_tkhr:20180721211635j:image

(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, Fujifilm SUPERIA PREMIUM 400)

 

/////////////////////////////////////////////////////////////////////// 

 

○OOOの文章、まとまっていないが、小出しにしていく作戦を実行、、。いずれはnoteの方でまとめよう。

 

 

0. オブジェクト指向存在論とは

 

 オブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology / 以下、OOOと略記)が扱う「対象(object)」は、テーブルやフォーク、電灯、家、電車といったぼくらが日常生活をともにしている事物はもちろんのこと、中性子や「四角い丸」といった物理的・数学的な対象や、EUに代表される諸国同盟や組体操の人間ピラミッドのような集団的な対象、はたまたケンタウロスのような非-実在の対象をも含んでいる。OOOにおいては、ありとあらゆるものが、複数の「性質」を備えた「対象」の分極された関係としてモデル化され、それらが出会い、別れ、安定化し、壊れ、すれ違い、眠ったまま引きこもる様が等しく描き出される。あらゆる事物に応用可能な認識のフレームとしての存在論を、グレアム・ハーマン(Graham Herman)は構築しようとしているのだ。

 ハーマンの哲学は現象学を出発点とするもので、既存の哲学とあくまで地続きの議論である。しかし、現象学があくまでも我々人間が認識するところの事物の表象を扱うのに対して、ハーマンはあらゆる存在者の「認識能力」を(複雑さの大小はあれ)認めることで、存在者の「種類」に対して、決して存在論的な対立を投げかけない。その上で、非人間的な対象の因果関係を、人間による対象の知覚と区別なく統一的なモデルで論じようとしているのが、オブジェクト指向存在論である。見方を変えれば、人間以外のあらゆる存在が主体たりえる現象学を考えようとしている、ともいえるかもしれない。人間中心主義の否定。この点でハーマンの議論は、フッサールの現象学や、「現存在(Da-sein)」の優位性を重視したハイデガーの哲学とは遠く隔たったものとなっている。

 後に詳しくまとめるが、OOOは事物一般のあらゆる「相互関係」を完全に遮断する。OOOにおける「関係」はあくまで非対称なもの、一方通行的なものである。OOOでは、事物一般の他者性を絶対化し、それらの「決して組み尽くせない秘密」を留保する。現前する対象はその一切合財がカリカチュアであり、ぼくらは対象のすべてを組み尽くすことは決してできない。しかし、ハーマンの議論を、オブジェクトの「引きこもり」を絶対化するという方向で読んでいくべきではない、とぼくは思っている。その方向でいくら四苦八苦しても、実際に建築をつくる理論へ返ってくるものが、あまりにも期待できないからだ。一方で、「関係」の方を絶対化する方向でも、「ものをつくる」ための建設な議論を引き出すことは困難であると思われる。あらゆる存在者がアクセスから引きこもった秘密をもつ一方で、それらは間接的に関係し合っているという、「関係」と「無関係」の中庸をついていくハーマンの慎重な議論の進め方を、建築へと議論を転換する上でもしっかりと組み取っていくべきであろう。

 

 建築とOOOをどう結び付けていくか、一応ぼくの考えも記しておかねばならないだろう。

 たとえば米国では、OOOは日本よりもかなり早い段階から受容されているけれど、そこでOOOは「奇妙な(weird)」形態と結び付けられることが多いように思われる*1。しかしぼくとしては、これはこのような記事を書いているモチベーションでもあるのだけど、このようなOOOの消化の仕方にはいささか納得がいっていない。翻訳のタイムラグもあることだし、OOOと建築の既存の議論を安易に迎合するのではなく、むしろ積極的に「こうでもありえた」別の仕方での議論を引き出したい*2 *3

 ぼくはOOOを、形態生成の引用元とするのではなく、そしてもちろん、既存の恣意的な形態や表現のキャプションに落とし込むものでもなく、あくまで既存の議論を「書き直す」ための修正パッチのようなものとして捉えたいと思っている。ある理論で対象を捉え直したときに、従来の議論の枠組み全般の書き直しが要求されることはよくあることである。そして幸いぼくらの手元には、有用な建築理論がいくつも用意されている。

建築家はこれまで、長い年月をかけ、下層(どのような仕方で構成材を綜合するか等)における問題と、上層(どのような認知され、使用されるか等)における問題をいったりきたりしながら、常に建築というひとまとまりの「対象」にこだわって思考と実践を続けてきた。一部例外はあるものの、ウィトルウィルスからはじまり、パラーディオ、セルリオ、デュク、ゼムパーときて、バンハム、ロウ、フランプトン、ヴェンチューリ、アウレリに至るまで、基本的に「建築理論」といわれるものはそうじてオブジェクト指向だったといえる。なぜなら建築を考えるということーーすなわち建築物を当の問題として「対象化」し、ハーマンの定義を借りればその対象を解体(undermining)や埋却(overmining)しながら分析するという行為ーーは、必ずもとの「対象」のほうへ、すなわち「建てること」のほうへ、再度投げ返されるからである(逆にいえば、「建てること」へのフィードバックをもつ限りにおいてのみ、建築理論はオブジェクト指向なのである)。建築は、いくつもの部材で構成されるが部材そのものには還元されず、都市空間のある敷地なかで位置や機能や役割をもっているけれどその関係に埋没することは決してない。建築は無数の関係性の網にとらわれながらも、ひとつの自律性を持続する存在である。建築家が建築物という多種多様な部材で構成された統一的なユニットの設計にこだわり続ける限り、これからも建築理論はオブジェクト指向であり続けるだろうと、ぼくはそう思う。しかしこれまで、そうした建築への接近の仕方ーーいくつもの部材により構成され、かつ多様な性質をもつ「建築」という中間的なまとまりを「対象」としてとらえるという態度ーーそれ自体が、しっかりと吟味されたことはあっただろうか。

 現代の建築を巡る状況に関して、「性質」や「部分」を語る雄弁さに比べ、建築というまとまりをもったユニットそれ自体を語る言葉があまりにも貧しいことが問題であると、長い間考えていた。そこには存在論がない、と。言い方を変えれば、「分析」や「観察」の結果を、「建てること=統合すること」になかなか投げ返すことができないというところに(すなわちオブジェクト指向に建築を思考することが困難であるということに)、現代建築の行き詰まりが現れてはいないか、と思う。

 ハーマンによる意欲的な存在論は、建築にまつわるこれまでの知的実践を統一的な視点から評価し直す強力なパースペクティブとなり、既存の建築理論への(ワクチンではなく)ウイルスとなりうる理論だと、個人的には思っている。OOOを含め、建築以外の専門分野の知見を注意深く参照する意味は、とりもなおさずそこから得た新たな認識によって、既存の建築理論や建築物を見つめ直し、新たな評価を与えたり部分的に書き直したりをするきっかけとすることで、自らの構築に向けたの道具を用意していくことにある。

 存在論が認識論でもあることを忘れてはならない。新たに獲得した「眼」によって、過去に光を当てること。設計へのフィードバックはそこではじめて生まれる。哲学者の提供する刺激的な概念を直裁に形態に落とし込んでしまうのは、あまりにもったいないと思う。焦る必要はない。まずはぼくらの手元に残されている、すでにその価値が証明されているが、しかしまだ発展の余地を残しているいくつかの建築理論を、じっくりと見直すべきだ。ハーマン自身が、グリーンバーグやマイケル・フリードといった新しくはない理論家たちに光をあて、自身の理論によって解釈し直しているように、だ。ぼくも、あくまでハーマンを見習って議論を進めてみようと思う。


 さて、ハーマンの議論はとても刺激的である一方で、解釈が難しい(若干荒さが目出つような)点がいくつかあるのも事実だと思っている(ぼくの読解力の問題かもしれないが)。その辺を検証しつつ、ひとまず建築を専門としている人間の視点から議論を再構成・チューニングしていく必要があるだろう。本稿が、OOOが喚起する新しい(かもしれない)新たな建築読解を、各々が制作していくための道具立てとなればと思っている。次回以降、まずはOOOの内容をざっくりとまとめてみるところから進めていこうと思う。それがおわったら、OOOを使って、既存の建築理論を解釈し直してみる、というところまでいければいい。

 人間から建築へ。建築からただのモノへ。モノからオブジェクトへ。記号論や言語論的な枠組みで建築を思考することから離脱し、「非人間的展開(the Nonhuman Turn)」を経由して、もう一度建築のほうへ、人間のほうへ回帰することを目指そう。議論は最終的に、建築家がもつオブジェクトへの意志についての思弁に行き着くだろう。

www.ohmura-takahiro.com

*1:Log33 Winter 2015やa+u 2017年5月号 「特集:米国の若手建築家」、現代思想2015年6月号における磯崎新と日暢直彦の対談等を参照のこと

*2:米国の動向を積極的に日本に紹介しておられるのは平野利樹さんである。平野さんが翻訳されたデイヴィッド・ルイの論考は必見。http://10plus1.jp/monthly/2016/12/issue-03.php

*3:米国の動向のオルタナティブとしては、2013年にロンドンでおこなわれた「Architecture on Harman, Harman on Architecture」というカンファレンスがまず挙げられるだろう( Series #1 | The Architecture Exchange )。ここではPatrick Lynchをはじめとした、ヨーロッパ(というかイギリス)を拠点とする建築家や研究者が集められていたようだ。本カンファレンスに参加しているペグ・ローズ(Peg Rawes)という女性の研究者は、個人的にいま世界で最も興味をもっている研究者のひとり。ちなみに彼女の発表は、いまのところYoutubeで聞くことができる。AE1 Peg Rawes - Nonhuman Architectural Ecologies - YouTube