JULU20,2018_無と無限

○グラハム・ハーマンについてまとめるとかいってたけれど、途中でフッサールやらハイデガーやらカントやらホワイトヘッドやらを読み直していたら作業が一向に進まない(国際学会にむけた英語の発表の練習は現実逃避気味、、)。ハーマンの哲学はコラージュ的というか、あるモデルに対して、いろんな思想家の概念を(いい意味でも悪い意味でも)切り貼りしていくようなところがあるんだよね。ちなみに、『四方対象』序文で書かれている下のテキストがすごくいいなと思ったから引用する。なにかを執筆する(あるいは単になにかを製作する)すべての人にとって有意義な指摘だと思う。

哲学ブロガーとして、私はよく学生に文章の書き方のアドバイスをすることがある。私が好んで彼らに伝えることの一つは、執筆作業の二つの大きな敵、すなわち、執筆を拒む二つの最大の要因である無と無限についてである。無とは書き始める際の何も書かれていない紙やコンピュータのスクリーンであり、無限とは、非常に広い範囲の重要な事柄について何か言わねばなるまいという、自分自身によって課されるプレッシャーのことだ。この固く結びついた二つの脅威への私の対処法は、プロジェクトに課された、自分が制御できないあらゆる制約ーー私が選択の余地なく絶対に従わねばならず、明らかに無でも無限でもないルールーーを強く意識するというものである。そのプロジェクトにかかっている全ての制約を特定するだけで、自由な決定の余地は狭められ、扱える範囲に収まり、無と無限という亡霊たちは、夜が明けたかのごとくたちまち消え去ってしまう。(『四方対象』,『四方対象 オブジェクト指向存在論入門』, 岡嶋隆佑監訳, 人文書院, 2017, p.10. )

  絶対的な制約はまずは「時間」だろう。すなわち〆切。時間といえば、数年ぶりにハイデガーの『存在と時間』を読んだのだけど、「読める、読めるぞ!私にも敵(ハイデガー)が読める!!」となっていてうれしかった。学部時代はきちんと理解できたのはいいとこ道具分析のところくらいで、他は手も足も出なかったのだけど、いまは60%くらいはいけてる気がする(ただの錯覚かもしれない)。特にハイデガーの時間に関する議論は、デカルトのコギトにおける無-時間性を批判し、コギトに潜在していた時間性を指摘しているのだと、すんなり読むことができた(現に自分が存在している状態と、自分自身を「了解」する瞬間とのタイムラグに、ハイデガーは根源的な時間性を見出す)。ちなみにハイデガーを読み直したのは、実在的対象(Real Object)と感覚的対象(Sensual Object)の接合(ハーマンはこれを真率 [sincerity] と表現している)に関して、ハーマンはこれを無媒介的・直接的な接触としていて、この無媒介性は代替因果における決定的な要素となっているのだけど、その根拠がはっきりと示されていないように思う。この辺はぜひ専門家にお聞きして見たいものだが、、。で、おそらくかなりハーマンが意識しているだろうと思われるハイデガーの現存在 [Da-sein] について一度復習しておこうと思った次第。

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最近は暑すぎて全然写真とってないなぁ。

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(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, Fujifilm SUPERIA PREMIUM 400)