JULY23,2018_オブジェクト指向存在論②

○この暑さ、辛いのは人間だけではないのだろう。道端の虫や植物の多くが命を失っていた。春と秋は生の季節という感じだけれど、夏と冬は死の季節という感じ。

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Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, Fujifilm SUPERIA PREMIUM 400)

 

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1. undermining / overmining

 

 ハーマンは、従来の哲学は「解体(undermining)」もしくは「埋却(overmining)」というどちらかのポジションから、対象という中間層をスキップした思考を続けてきたことを指摘する。

 

○解体(undermining)

 事物を構成する究極的な「一者」を想定する考えは古来から存在していて、その最も基礎的な何かに対しては、「アトム」(デモクリトス)や「アペイロン」(アナクシマンドロス)など、さまざまな名前が与えられてきた。また現代を生きるぼくらにとっても、たとえばリンゴとは何かと問われたときに、それを分子や原子、クオーク、電子、微細のひもの集合として一元論的に捉えることは、ごく一般的な思考方法であるように思えるだろう。

一見自立的な対象であるかのように思われるものも、実際には、より小さな部分の寄せ集めにすぎない。基礎的なものだけが、実在的でありうる、というわけである。(QO*1, p.19.)

このような、対象をより小さな部分の寄せ集めとして考える方法を、ハーマンは対象の解体(undermining)であると批判する。さらに、たとえばマヌエル・デランダはベルクソンのような仕方で潜在性の平面について論じているが、こうした対象を「前個体的なもの」とみなす中途半端な一元論も存在するという。ここでは、世界は準分節化されたかたまりとみなされ、事物の断片が人間によって恣意的に切り出されるのだと考えられる。いずれにしろこれらの立場においては「対象は究極的な実在の名を担うには個別的すぎると主張し、諸事物の発生源として、より深層にある未規定な基礎を考え出す」(QO, p.22.)。しかし、ハーマンはこうした戦略を以下のように批判する。

たとえ欧州連合の全ての国がクオークと電子でできているとしても、私たちは連合を変化させることなく、それらの粒子の位置をある程度移動させることができる。連合それ自体変化させずに、粒子の数や配置を変える方法は無数に存在するからだ。「余剰因果」ーー多数の異なる原因が同一の対象を生じさせることができるーーとしてしばしば知られるこの原理が示唆しているのは、対象がその原初的な要素以上の何かであるということなのである。(QO, p.30.)

 

○埋却(overmining)

 対象を扱うもうひとつの典型的な方法は、対象を「性質の束」と考えることである。

経験の対象とされるものは性質の束にすぎない、というよく知られた経験論的な見方について考えてみよう。〔この見方によれば〕「リンゴ」という言葉は、習慣的に結び付けられた一連の離散的な性質ーー赤さ、甘さ、冷たさ、硬さ、固さ、美味しさ等ーーに対する集合的なニックネームにすぎない。存在するのは、個々の印象、究極的には、経験の微小なピクセルなのであって、そうした点状のものを習慣的に結合することで、私たちはより大きな単位を編み上げているというわけである。(QO, pp.23-24.)

ヒュームに代表されるような対象を性質の埋却地とするような立場をハーマンは“overmining”と名付け、以下のように批判する。

しかし、これは全くの作り話である。私たちは経験において出会うのは様々な統一的対象であって、性質の離散的な点ではないからである。実際のところ、本当の関係は逆である。事物が有する個々の性質には、あらかじめその事物全体のスタイルないし感じが染み込んでいるからだ。私が持っているリンゴと全く同じ色相の赤色を、近くにあるシャツやスプレー缶に見つけることがたとえできたとしても、それらの色は、それぞれの場合において異なる感じをもつことになるだろう。というのも、それぞれの色は、自らが帰属している事物と結合しているからである。(QO, p.24.)

 

○相関主義と関係主義

 経験論が上記のような仕方で、対象を経験における「性質の束」に埋却するのだとしたら、経験の「外部」にある対象はどう扱われるのだろうか。カント以来、前衛的な思想家の多くは、際立って反実在論的な傾向を示してきたという。反実在論者の立場は大きく分けてふたつで、ひとつはバークリが「存在するとは知覚されることである」というように、知覚される外部の存在を完全に否定する立場である。もうひとつは、カンタン・メイヤスーが「相関主義(correlationism)」と命名するものだ*2。すなわち、人間なしの世界について私たちが思考することは不可能であり、人間-世界の相関ないし連関だけが唯一思考可能なものであるとする、認識の外部にある世界について懐疑的な、それをあくまで不可知であるとする立場である。空間や時間、そして諸カテゴリーを媒介にして、人間と世界の関係性は哲学的に、その他あらゆる種類の関係性に対して特権を与えられており、哲学は第一に世界へとアクセスする人間について扱うものであって、少なくとも出発点として、このアクセスを引き受けなければならない、というわけだ。これに対抗して思弁的実在論(Speculative Realism: SR)が目指したのは、人間から切り離された「物自体」を議論の中心に復活させることであった。

 「思弁的実在論」という動向は、2007年にロンドンのゴールドスミス・カレッジにて、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、カンタン・メイヤスー、グラハム・ハーマンによっておこなわれたワークショップに端を発している。4人の議論は、メイヤスーがワークショップの前年に『有限性のあとで』において示した「相関主義」への異議申立てという点では足踏みを揃えていたものの、その方法、すなわち「物自体」を語る方法に関しては著しい対立があった。メイヤスーら思弁的唯物論の立場は、人間の世界へのアクセスという文脈から議論を進めるものの、最終的には、たとえば数学的に定式化可能な性質といったその外部にいかなる余剰も存在しない(人間から切り離された)絶対的なものを、人間が認識しうるというところに帰結する。一方OOOの議論はその真逆であり、ハーマンは人間の「物自体」へのアクセスをはじめから否定するが、それは人間に限ったことではなく、事物一般における一般的な法則であるとし、人間中心主義を徹底して否定する。スティーヴン・シャヴィロがいうところの「消去主義」がメイヤスーらの立場であり、「汎心論」がハーマンらの立場であって、シャヴィロによればカントの相関主義(私たちはモノそのものではなく、私たちが認識するところのモノを認識しているのであって、そこには認識の誤謬がいくらでも混入しうる)を批判しようとする場合、基本的はこの2つの筋道が想定できる*3

 

  さらにハーマンは、相関主義的立場の変種でありつつも、本質的に反カント的な理論として、関係主義(relationism)という立場を挙げる。ホワイトヘッドやラトゥール、一部のプラグマティストのうちに見いだすことができるこの関係主義は、あらゆる実在が人間と世界の関係に基礎づけられること(相関主義)を否定しながらも、どんなものも、ひとつのアクターとして他のアクターになんらかの影響力をもつ限りにおいて、事物は個体性を獲得できるのだ、と主張する。関係主義において、私が知覚した窓を打ち付ける雨と、雨と窓の接触それ自体は「本質的に」異ならないものであり、このときある対象の実在性は、他の対象への現前(関係の集積)によって汲み尽くされるものである。

こうした立場はどれも、対象を直接的な現出によって容易に代替可能で無益な基体として扱う点において、対象を埋却している。(……)このように世界を関係へと還元してしまうことにはいくつかの問題がある。まずもって、世界の全体が現在の所与によって汲み尽くされるのだとしたら、何かが変化する理由がない。(……)さらに、この立場には、異なる様々な関係を結びつけ、それらを同一の事物への関係とするための手段がないという問題がある。ある家が、三人の女性と一匹の犬、そして一羽のカラスと同時に出会うとき、それらがもつ知覚はそれぞれ非常に異なった性格を有しているだろう。」(QO, p.26.)

 たとえば、朝の通学前の時間帯にゴミを捨てに出た際、異なる複数の主体がぼくの周りに集まるときに、それらの主体が知覚するぼくの表象は主体ごとに異なるものになるだろう。たとえばアパートの前で集団で飛ぶ羽虫の群に接触するぼくは、羽虫にとっては生物というよりは自然災害に近い存在であろうし、カラスにとってのぼくは、定期的に餌場(ゴミ捨て場)に餌(生ゴミ)を随分と取りにくい仕方で供給するゲーム的な性格をもった公共インフラに近い存在かもしれない。また、足元のアスファルトにとってぼくは(スニーカーの底でしか接触していないために)ほとんどゴムとイコールであるはずだ。羽虫・カラス・アスファルトは、「自然災害として私」「インフラとしての私」「ゴムとしての私」という異なる「私」と出会っているが、その瞬間、「私」は依然として統一的な「私」でありつづけている。関係主義のロジックにおいては、異なる主体が知覚する複数の「私」(災害・インフラ・ゴム)を、ひとつの統一的ユニットとしての「私」に統合する経路をもたない、と。さらに、もし異なる主体が知覚する「私」を何らかの仕方ですべて集計することができたとしても、それらの総和によって「私」の実存を説明し切ることは決してない、ともハーマンはいう。相関主義と関係主義を含め、対象を埋却する方針は総じて以下のように批判される。

私は今ここにいる実在的な何かであって、〔私の〕外から編み上げられる知覚のタペストリーではない(QO, p.27)

 

○実体の哲学

 実在性についての哲学や自然科学の解釈は上記の二つの戦略へと分けられる。さらに、この対象の解体と埋却という思考方法は表裏一体であり、事物をひとつの物理的要素へと解体する場合、最終的な還元要素にある性質を付与するということがよくあるし、対象を「性質の束」に埋却する場合も、複数の知覚を相互に関連付ける特別なひとつの実体として、神を想定さざるをえないということがおこる。これらはともに、一種のホーリズムへと陥る可能性を孕んでいる。

 一方個体的オブジェクトを重視する哲学の系譜の中心は、アリストテレス的系譜である。ここでは個体的な存在者は「第一実体」として扱われる。アリストテレス、スコラ哲学、ライプニッツを源流に持つ理論はいずれも実体の理論と呼ぶことのできるものであり、OOOは同じ系統の最新版であるとハーマンはいう(さらにいえば、スコラ哲学からのブレンターノ、フッサールハイデガーというライン)。

アリストテレスにとって、重要な裂け目があるのは、もはや完全な形相と(質料における)その不完全な現れの間ではない。その代わりに彼は、まさに対象そのものの内にーーすなわち、個別的な猫とそれがつかの間有している様々な偶然的特徴との間、あるいはその猫とそれが有している様々な本質的な性質の間にさえーー闘争を見て取っていたのである。(QO, p.32.)

 ライプニッツモナドにおいても、各モナドは固体的事物である一方、それが統一的事物である限りにおいて、それがもつ多数の性質と異なっていることが認められている(かつ、モナドは他の事物の知覚により定義されるが、いかなる知覚も他のモナドと真の接触をもたない。すなわち「モナドには窓がない」)。いずれも、対象と性質の間にある厄介な亀裂に着目しながら、実体を定義しようとしていたのである。

 しかし、アリストテレスから続く実体に関する議論とハーマンの対象指向哲学の間には大きな隔たりがある。というのも伝統的に、実体は自然なものかつ単数的なもの(さらにライプニッツにおいては破壊不可能なもの)であるとされる傾向があったのだが、OOOでは、イルカや石や木だけではなく、プラスチックのコップや風車、手を握り合った人々から成る輪、接着されたダイアモンド、オランダ東インド会社等も実体として取り扱われるからである。

対象は、二つの意味で、自律的(autonomous)でなければならない。すなわち、対象は、その構成要素以上の何かとして創発する一方で、他の存在者との関係から部分的に自らを抑制しているのである。(……)対象は、結局のところ、還元不可能な二つの区分へと分極されていることが明らかになる。(QO, p.35.)

対象は、部分に解体されず、かつ性質に還元されることもない、そうした統一体であり、かつOOOにおいては「寄せ集め」(建築がまさにそうであるが)の対象にも積極的に実体が与えられているのだ。

www.ohmura-takahiro.com

*1:Harman, Graham: The Quadruple Object, John Hunt Publishing, Zero Books, 2011 / 邦訳『四方対象 オブジェクト指向存在論入門』, 岡嶋隆佑監訳, 人文書院, 2017, / 以下、QOと略記。なお本稿では基本的に邦訳のページ番号を示すこととする。

*2:Meillassoux,Quentin: After Finitude : Essay on the Necessity of Contingency, trans. R. Brassier. (London : Continuum, 2008.) / 邦訳『有限性のあとでーー偶然性の必然性についての試論』, 千葉雅也ほか訳, 人文書院, 2016 / 原著の仏語版は2006年発行

*3:Shaviro, Steven: The Universe of Things: On Speculative Realism, Univ of Minnesota Pr, 2014. / 邦訳『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』, 上野俊哉訳, 河出書房新, 2016.