DEC.28,2018_休み時間のぱらぱら

○ 自室で作業をしていて、なんとなく手づまりになってきたらぱらぱらとページをめくる本がいくつかある。昨日の日記でとりあげたスタインがまさにそうだ。さいきんは石井桃子さんのエッセイを読むことも多い。と、こう書くと、単に柔らかな表現で書かれているテキストに癒やしを求めているようにも聞こえるのだけれど(もちろんそういう側面はある)、大江健三郎や中平卓馬のテキストにもそういう類の癒やし効果はあるので、かならずしもそうではない。たとえば、岩田慶治やストラザーン、ヴィヴェイロスら人類学者の書籍にも、もれなくやる気をもらえる(休憩中にぱらぱらしちゃう)。ハラウェイの『犬と人が出会うとき』や岩成達也の『詩の方へ』、倉石信乃の『反写真論』もそう。と、いま思いつくものを思いついた順で書いてみたが、ジャンルも文体も何もかもがばらついている。なんだか自己分析をしているようで気恥ずかしいが、たぶん、端的に自分にとって大切な、思考のふるさとのような本と、研究の息抜きという場では触れ合いたいと思っているのだろう(たんにそれらの本が、本棚の「自分にとってとくべつ大切な本を陳列するコーナー」に置かれているので、休み時間にふと手に取りやすいということなのかもしれないけれど)。休憩時間の過ごし方というのは人によってだいぶ違うんだろうと思う。ただお茶を飲んでゆっくりする方もいるし、筋トレをするひともいると思うけれど、なにより集中して作業しているその作業内容をいっとき忘れることが重要なんじゃないかと思う。集中するために集中力をいったん切ること。

 思い返してみると、建築・哲学・SFの3ジャンルを作業の合間にぱらぱらと流し読みすることはとても少ない(自室の本棚の7割はこの3ジャンルで占められているのにもかかわらず)。もちろん建築・哲学・SFのうちにも、思考のふるさととなっている大切な本はたくさんある。建築の研究の息抜きに建築のテキストを読みたくないというのは、とはいえまぁ正常な反応である気がするのだけど、SFはどうだろう。既読であっても先の展開が気になってしまうからか、あるいは他ジャンルの小説に比べ仕掛けられているギミックと固有名詞が多く、そのへんが気になってしまうからか。哲学はどうだろう。必要以上に頭を使ってしまって、マトモに作業に戻れなくなってしまうような気がするという、たぶんそのくらいの理由な気がする。同じ他ジャンルの専門書であっても、人類学や生物学の書籍が読めるのは、たとえ難解な内容であってもそれらがあくまで具体的な状況に関して書かれているからだろう。内容が抽象的であればあるほど、自分にとっては頭への負担が大きい。岩成達也の詩に関する論考は読めても、岩成自身の詩を読むことは(作業の休憩中には)できない、という感じ。

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