PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm / F2.4, KODAK Portra 400
DEC.14,2023
青森関連投稿。リサーチ写真②。
PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm / F2.4, Kodak PORTRA 400
DEC.13,2023
青森関連投稿。リサーチ写真①。
PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm / F2.4, Kodak PORTRA 400
SEPT.7,2021
もうすっかり寒く、ひと雨ごとに夏が遠のいていくみたいだ。今年もまた、夏っぽいことはあまりできなかった。今まさに雨が降っている。秋ってこんなに雨ばっかりだったかな、と思う。
先月の日記で書いた*1、お盆くらいに見た館林美術館と太田市美術館・図書館の写真のネガをスキャンした。今思えばこの日も雨だった気がする。そしていつに間にか一ヶ月が過ぎようとしている……(衝撃)。9月〜10月あたりがマッハで過ぎ去っていくというのは毎年感じることだ。今思えば昨年も一昨年も展示の準備や設営で追われていた。3年前は国際学会でてんやわんやしていた。4年前は…5年前は…よくわからない。けれど、一ヶ月どころか、年単位であっというまに時間が過ぎてしまっていることに気が付き、だんだんと衝撃がそちらにシフトしてきている。こういうときに過去の日記を読み漁るとなかなか帰ってくれなくなるので、ほどほどにしておこうと思いつつ、2017年のこの時期の日記を読み返してしまう。まだこのころはフィルムカメラを使いはじめたころで、というか意識的に写真を撮影すること自体はじめたばかりで、なかなか味わい深い。
SEPT.1,2021_シン・マサキキネンカンの写真
もうずいぶん前のことになりますが、東京藝術大学青木淳研究室による展示「シン・マサキキネンカン」の記録写真を担当したので、ブログにもアップしました。久しぶりに写真をひと通り見たけれど、どんな空間だったのか、まだまだ鮮明に覚えているから不思議だ。記録写真を自分で撮ると空間そのものが身体に刻み込まれるような感触がある。この現象、なんか学術的な名称とかないのかな。
いつかまた、写真を撮る仕事ができたらいいなと思う。建物の写真もっと撮ってみたい〜という強い気持ちがある(いつでもお待ちしております!)。写真、とても難しいけれど、誰かが一生懸命つくり上げたものを撮影するのは好きだし、楽しいし、とても光栄なことだなと思う。
シン・マサキキネンカンの記録写真は、既存の状況からどう変化したかを撮るわけでもなく、設計者の意図そのものに注目するのでもなく、介入(らしき行為)によって促された既存への視線、みたいなものを残そうと思って撮ったのだったと思う。自分の身体が感受した感覚を、混ぜたり混ぜなかったりして撮っている。
もともとは、写真が仕上がったら研究室に伺って、写真を撮った身として展示の感想を共有しようという話だったのだけど、ちょうど緊急事態宣言が発出されたタイミングで、宣言が解除されたら伺いますと先延ばしにしていたらけっきょく解除されずに半年以上が過ぎてしまった。シン・マサキキネンカンはとてもおもしろい展示で、作品をレイアウトするということではなく、建物に何らかの仕方で介入する手付きそれ自体を見せる、という狙いのインスタレーションだったと思う(より正確には、建築家の介入を既存の環境と完璧に識別することの不可能性を経験させる、ということかもしれない)。「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」という位置づけがされていて(明確だ)、建築を専門としている人々がおこなう展覧会としての必然性があった。
建築家の既存への介入の仕方には、経験する側が明確に感受できるものもあれば、多くの人々が見過ごしてしまうたぐいのものもある。あるいは、一回の経験じゃ見過ごしてしまうけれど、1年住めば見えてくる改変の痕跡もありうる。その介入の強弱のようなものは、たんに建築家の個性ということで片付けてしまえるものではなく、一種の技術として非常に重要だと思うのだけど、実際に議論されることは少ない。ましてや、ひとつの建物に強い介入と弱い介入が混合することなど稀だ(これはすごく高度なことだと思う)。展示という枠組みは「注意深く見る」態勢を見る側にもたらす。シン・マサキキネンカンは展覧会というフォーマットを借りたリノベーションという制度の上演・実験だったと思う。建築空間の改変は、もちろんストレートに知覚の問題だけれども、同時に芳醇な意味のネットワークへの(移動や付加といった物的な動作による)介入でもある。たしかそんなようなことを展示を通して感じて、青木研で話を聞いてからまとまったテキストにしようかなと考えていた。そんなことを、これらの写真と、断片的なメモを読んで思い出している。
AUG.27,2021
雨のあとの川。その2。
△ふだん道のところが水に浸かっている。
△絶対にワニいる。
△野良猫が魚を狙ってた場所。
△樹木が少し心配。
AUG.25,2021
博論出したし(正式な可否はまだだけど……)、そろそろ就活せなと思いつつ、まだ何もやっていない(何もだ!まったく何もだ!)。来年4月からの、大学の助教等のポストの公募で、自分でも応募できそうな条件のものがいくつか出ているので、トライしないといけないなと思っている。思ってはいる。だいたいどの大学も要求してくる資料は似たりよったりなので、一度作れば2回目からは楽になるはずだ。なんの役に立つのか説明が難しい研究やってた自分を拾ってくれるような大学、あるのかしら。あってほしい。
先日書いた、大雨の次の日の河川敷の写真。
AUG.16,2021_多摩D
多摩動物公園に初潜入する。人が全然いないからか、場所がとても余っているように感じる。エリア同士の距離感にとても余裕がある。鳥類、とくに猛禽類が充実していた。オオワシやイヌワシなどがたくさん生活している巨大なゲージがあるのだけど、こんな場所は他の動物園では見られないように思う。オオワシは本当に大きかった。ちょっとゾクっとする大きさ。
動物、というより生命一般の存在によって生じる距離や大きさの問題はとても興味深く感じる。距離や大きさを、実際のそれよりも過剰に知覚してしまう。遺伝子レベルで刻まれた動物への注意みたいなものが、知覚に強烈に反応している、というような。土とか木とか、そういうものとは明らかに大きなギャップがある。空間を語るとき、こうした(各存在者に私たちが異なる仕方で向ける注意の)質的なギャップが語られることは少ない。
梶井基次郎の『檸檬』のなかの本屋で檸檬が爆発する空想を、急にいま思い出している。檸檬には得体の知れない爆発的なエネルギーが詰まっており、内部には空間が過剰に圧縮されている……と主人公は考え、自身の空想の素材にする。空間は質的な差異をもった個別的な存在者から“展開”するものだ、というシーンだ(と勝手に僕は考えている)。オオワシはまさに得体の知れない何か──未来へとさし向けられた可能性のようなもの──が過剰に詰まった存在であり、だからこそ「大きい」のだ。この得体のしれなさを棚に上げたまま、たぶん大きさとか距離とか愛とかを語ることはできない。
そういえばこのフライングゲージでは、仲睦まじくしているイヌワシのつがいのあいだに一羽のヒメコンドルが割って入り、片方のイヌワシを木からえいと落としてその場の空気をなんか気まずい感じにして去っていくということがあった。(そんなことはないのだろうけれど)「リア充爆発しろ!」的な行動にしか見えず、おもわず胸がじんわりと熱くなった。
雨がパラパラと降っていたので、多くの動物は室内に入っていた。外にいる動物もみな、中に入りたがっていた。みんな雨は嫌いみたいだった。
(雨の影響でオオワシの写真撮ってないのである……)
そういえば昨日「プレイタイム」について少し書いたけれど、この映画に出てくる建物群が醸し出す雰囲気がアリソン&ピーター・スミッソン夫妻のエコノミスト・ビルに似てるなーっと思ったことを書き忘れていた。たぶん配置の問題(あの映画に出てくる空間の異様の原因は、たぶん配置の問題なんだ)。ガラスの反射が特徴的な建物でもないし、そもそも行ったことないけれど、ぼくのなかでは近しいものとして感じられた。絶対に好きな建物だと思っている。現地で確かめたい〜。
©Patrick at made-by-architects.com
AUG.10,2021_猫のこと(その1)
家の近くを縄張りにしている野良猫とふとしたことで仲良くなったのは6月の頭くらいのことだったと思う。最初は警戒していたが、何かをきっかけにさわれるようになり、毎日夜中になると庭で遊ぶという関係性が生まれた。たぶん向こうが機嫌がいい時に寄ってきてくれて、ここぞとばかりになでなでした際に、コイツは近づいても大丈夫だという認定がされたんだと思う。去年の7月からここに住んでいるわけだが、一年間はまったく近寄ることもできなかった。
仲良くなってみるとやけに人懐っこい猫で、近寄ると足に頭から突っ込んでくる。やせてるわけではなく、むしろけっこう太っちょなので、どこかの家でたっぷりとご飯はもらっているのだと思う。ぼくはキャットフードの類は一切あげていないが、そもそも餌を求めているという感じでもない。単に暇なときに、玄関の前でニャーニャーと鳴き、その声を聞いて庭に出ると30分くらい遊び、飽きると去っていく。
以前共用棟でみんなで飲んでいるときに、一応この猫の呼び名を決めようということがあって、ひとまずボバ(建築家リナ・ボ・バルディからきている。井上さん命名)という名前を勝手につけたものの(だれに了承を取るのだろう?)、野良猫はきっと複数の場所で複数の名をもっているだろうから、と、けっきょくその名で呼ぶことはほとんどなく、おいそこの猫、とか、にゃんだね君は、とか、先生、とか、そのたびごとに適当に呼びかけている。今日も帰ったら玄関のそばにいたので、少し遊んでから部屋に戻った。おぬしはかわいいのう、とバカ殿っぽいイントネーションで呼んだ。
デルタ株だデルタ株だと言われているが、ラムダ株というのも最近入ってきたらしい。ラムダと聞くとラムダ・ドライバが頭がよぎるので、ヤバそうだな、という気だけはする。実際たぶんヤバい。
MAY.10,2021
アパートの共用棟では午前から、来週搬入予定の家具の製作がおこなわれていた。黙々と製作されているAさんに、昨日買ったクッキーを差し入れする(後日、ありがたいことに、すごくおいしいパンがお返しとして返ってきた。小さな食べ物がより大きなカロリーをともなった食べ物を呼び寄せたので、わらしべ長者の気分になった)。午後、先日竣工したホワイトハウスの庭についての簡単な取材を受けてから、代官山の蔦屋にノーツを納品しにいく。ノーツができてからほぼインターバルなしで設計・施工と博論執筆に入っちゃったので、書店への営業がぜんぜんできていなかったのだけど、ようやく少しずつ。最初に声をかけてくださったのは、いつか絶対に行きたいと思っていた鳥取の汽水空港さんだった(https://www.kisuikuko.com/item/721/)。本当にありがたい。加えて(東京が中心になってしまってるけど)青山ブックセンターさんと代官山の蔦屋さんでも販売中。ギャラ間のBookshop TOTOさん、本屋B&Bさんにも置いていただくことになっているので、見かけたらぜひ手にとってみてください。
家に帰ってから、長らくお待たせしまっている原稿に着手する。ある住宅についての原稿なのだけど、僕自身執筆を楽しみにしていた仕事なので、わくわくしている。施工と博論が一段落して、ようやく腰を据えて。お待たせしてしまっているので、今日明日くらいで急いでまとめようと思っていたのだけれど、自分で記録として撮った写真を眺めているうちに、一週間くらいかけてじっくり取り組んだほうがいいのではと思いはじめた。頭のなかにある、言葉になりかけているモヤッとした何かを、すくいとれそうな気がしている。まずはフィルムのスキャンからだ。
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