NOV.29,2018_大川小学校

東北で撮った写真③ 

○ 東日本大震災で最も悲劇的な被害を受けた小学校のひとつが大川小学校だろう。

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 津波到着まで50分という時間の猶予があり、さらに学校のすぐ裏手には日頃から椎茸栽培のために登っていた裏山という避難場所があったにもかかわらず(実際この裏山に避難していれば津波は免れた)、学校側は子どもたちを校庭に長時間とどめた末に、裏山と反対方向の川側にある橋のふもとの三角地帯への避難を指示した。しかし、ときすでに遅く、避難中の児童たちは津波の直撃を受ける。児童74名と教職員10名が死亡・行方不明となり、生還者は教員1名と児童4名のみであった。詳しくは下のサイトにまとめられていたので、ぜひ。

大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻

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前面道路には大型トラックが頻繁に往来していた。

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かつて住宅地だった場所だ。

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右手が実際に児童たちが避難した北上川方面

 

 情報としてはこういうことを知っていても、実際に行ってみてみるとやっぱりぜんぜん違う。とにかく衝撃を受けるのは裏山と小学校の近さだ。全国どこを探しても津波への避難場所としてここまで最適な裏山がこれほど近い距離にある小学校はなかなか見つけられないだろう。だからこそ、災害に対する対処のまずさがより一層浮き彫りになる。とにかくこの建ち方が、建築と環境のひとつのセットが、日頃の災害教育や学校側の意思決定の問題等を徹底して見直していくひとつの参照点として極めて重要な震災遺構となることは間違いないと思った。

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 レーモンドの弟子である北澤興一によって80年代に設計されたのこの小学校は、天井高がとられた明るい平屋の教室群がユニークに配置されている構成で、とても先進的な設計であったことがよくわかる。いわゆる紋切型の学校ではなくかなりデザインが施された校舎であり(コルビュジエ風のトップライトもあったりして)、それが無残に倒壊している様をみるのは結構きつかった。設計者の北澤さんのショックはぼくには計り知れないけれど、下のインタビューは多くの人に読んでもらいたいなと思った。

www.nikkei.com

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 真相究明には程遠い内容であった市の教育委員による調査や説明を受け、遺族側は事実を明らかにするため、石巻市及び宮城県側を相手取って訴訟を起こす。2016年10月、地裁は学校側の責任を認め損害賠償金の支払いを命じたが、市・県側は控訴。今年の4月が控訴審判決の日だったのだが、1審に続き2審でも遺族側が勝訴、再び宮城県及び石巻市の過失が認められることとなった。しかし、市・県側は最高裁への上告を決めているので、この問題はまだまだ収束していない。

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「津波到達点」の看板が見える。

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(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, FUJICOLOR 100)