AUG20,2018_ 倉賀野駅前の風景その①

プロジェクトを進めている、倉賀野駅前の風景。
ずっと工事中、という感じの場所。

(Mamiya RB67 Professional, Sekor 127mm F3.8, FUJICOLOR PRO 160NS)

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『眼がスクリーンになるとき』を一度読んだので、今はドゥルーズの『シネマ1・2』の方を読み直している。「表現」という語の意味と、「信」ということに託されている意味を理解するのがすごく難しい。少ししたら、もう一度福尾さんの書籍の方にもどって、備忘録的にブログで感想を書くことになるだろう。ぼくの研究にとって極めて重要な読書となった。とくに、「偽なるものの力能」に関する議論はものすご〜く重要な箇所だと思った。今月の頭にミラノで開かれた国際学会では、建築における幾何学を4つのカテゴリーに種別することができるという仮説を述べたのだけど、その第4のカテゴリーとして「Fictional Geometry」という「のちに壊されるべき幾何学」("fiction"には「仮設」という意味合いも含まれる)が建築物の経験や構想の際に現れるんだということを発表した。これは修論から一貫するテーマで、なぜ(とりわけ現代の)建築設計において「仮止めの秩序」や「フィクション」のような幾何学が、すなわち一種の「思考停止」のポイントが要請されるのか、ということをずっとやっているのだけど、福尾-ドゥルーズの議論からはかなり多くのヒントをもらうことになった。な… 何を言っているのかわからねーと思うが、あ…ありのまま今起こった事を話すぜ!、、、という感じでいま書いているので意味不明だと思うが、、、。それと、「だから私に身体を与えてください」、「仮構作用」について、「射影幾何学」についての言及。いずれもとても重要だと思った。なぜ建築を専門にしている自分にとって、「見たままの映画」が喚起するこれらの諸概念が、「重要」であると思うのか。このこと自体を今のうちにきちんと言語化しなければいけないだろう。できる範囲で。そしてできるだけ、ドゥルーズが映画を扱うような仕方で、ぼくも本書を扱いたいと思う。各々の個別の実践が、一見すると異なるものをつなぎとめる関数となり、開かれた「変形の層」を構築するように。