JUNE5,2018_部分的つながり②

○昨日の続き。ウセン・バロクの人々の儀礼における「図と地の反転」の基底にあるものはなんだろうか。

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 ひとつは、各々のオブジェクトが「同じ素材」からつくられているという認識である。

 

 まず、ワントアト盆地の住人は儀礼時、樹皮布と竹からできた20m近い巨大な拡張物(エクステンション)を身につけることで、相対的に自らの身体を「樹木の根」に見立て(Fig.1)、また同様に、木と竹を用いて上下に揺れ動くように作られた盾を担ぐことで、自らを「精霊」にも作り変える(同, pp.173-175)。彼らの神話によると人間はそもそも、けたたましい音を立てて割れる竹から生まれた存在である (同, pp.176-177)。また、カヌーは一本の樹木を切り出すことで造られ、旅立つ男たちを運ぶが(同, pp.178-180)、彼らの笛もまた、樹木から切り出されてつくられるものである。

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Fig.1 ワントアトの「拡張物」


 うなり木(唸り木(うなりぎ)とは - コトバンク)は、まるでワントアトの「拡張物」のミニチュアのような小さな楽器であり、精霊の住処となる顔の文様が描かれる。さらに人間はぱっくり割れた竹から生まれたのであり、つまり音を立てる「樹木」であるから、笛の類比物として結び付けられる。カヌーもまた、その形態や、岸辺で船の到着を告げる法螺貝、シューシューと水面を移動する音と結び付けられ、あたかも気鳴楽器の一種のように、側面に割れ目太鼓と同様のトーテム模様を刻みつけられる (同, pp.184-187)。

メラネシア人は、伝統に隠喩的な切れ目を入れるのではなく、文字通り肌の表面を切る。また彼らは、個人を隠喩的に転倒させ、文化的ルーツを求めて旅をするように仕向ける代わりに、文字通り木の根を引き抜いて逆立ちさせ、樹冠が常に根によって支えられていたことを示す。
 このようなリテラリズムを誤解してはいけない。切断され、動かされているのは、イメージそれ自体なのだ。男たちと樹木と精霊と笛と女たちとカヌーが、すべて互いの類比物(アナログ)とみなされる場合、そしてワントアトのように、樹木が切り倒され広場の中央にもって来られる場合、人々は樹木を、ひとりの男のイメージとして森から切り出している。(同, pp.266-267.)

 盾や人間やカヌーや笛は、樹木という「同じ素材」からつくられている、がゆえに、これらはすべて類比物(アナログ)なのだ。このとき、ある比喩=形象は、先行する比喩=形象から引き出されるかのように提示される。モノや道具は、互いにイメージを引き出し/引き出されるという関係にあり、「先取りされた喚起」がコロコロと展開していくような、アナロジーの運動のなかで動く。

 「あらゆるモノが類比物」であるがゆえに、メラネシア人にとってモノの間の類似性や類同性は自明のもの、いわば社会生活における通奏低音である。であるがゆえに、彼/彼女らにとって「創造する」ということは、絡み合った無限に続きるアナロジーのネットワークをむしろ適度にカットすること、に他ならない。特定のイメージを喚起するような形態(フィギュア=図)は、そうした「切断」のスキルによって仮固定され、提示されるのだ。

 

 同時に、道具やモノ(上述した笛やカヌーに加え、袋、仮面、アクセサリーなど)やある特定の儀礼などは、部族間で微妙に意味が異なるという。つまり、モノや道具の使われ方には一貫した基軸がなく、それらは常に様々な使用可能性のなかで揺れている。モノは異なる社会集団間で、例えば婚姻関係や貿易を通して共有されるが、そこでは互いに異なる役割をもったモノ=道具としてあらわれる。 その「使用可能生」のズレによって、アナロジーは拡張されていく。

 「笛」は人々の口の拡張であり、鳥という形態をとった精霊であり、旅の終焉(カヌーの到着)を予期させるサインでもありうる。一方異なる部族間において「笛」は、ある部族では娯楽のために用いられる道具であり、ある部族では少年たちを威圧する道具として用いられる。「笛は一般的な形態として存在することなどなく、無数の特定の形態としてのみ存在しているのである。」(同, p.192)。ある道具=モノが「旅」をするとき、おのずとそのモノには、送り手と受け手双方のアイデンティティを帯びることになるのだ。

(送り手と受け手のアイデンティティを帯びることで)その内部に移動が書きこまれた財貨、竹竿に沿って上下に動く精霊の顔は、メラネシアのサイボーグ、すなわち、異なる形象あるいは構成要素からなる一回路である。(……)
 メラネシアのサイボーグと、ハラウェイにおける半人間/半機械との相違は、メラネシアのサイボーグの構成要素が、同じ素材から概念的に「切り取られて」いるという点にある。紐に連ねられた貝殻と母系リネージのあいだ、男と竹竿のあいだ、ヤムイモと精霊のあいだに差異はない。両者が関係の知覚を等しく喚起する限りにおいて、一方は他方「である」。異なる構成要素ないし形象は、だからいずれも、互いにつなぎ留められた複数の人格ないし諸関係の部分である。(……)「同じ素材」であることは、その効果として、あらゆる動きと活動に共通の背景があるという知覚を生み出す。切断という創造的な行為のさらなる重要性ここに由来する。情報の亀裂は、ある人格を別の人格の拡張された部分として可視化し、母親の兄弟に自分たちが姉妹の息子と部分的にだがつながっていると感じさせ、また、個人のアイデンティティの複数の位置を差異化するのである。(同, pp.280-281)

 

 儀礼において、「水平 - 垂直」のイメージの逆転を可能にするのは、イメージを構成する要素(統率者・女性・男性・ブタ・祖先ら)が”異なる仕方で再配置”されるからであった。それが可能となるのは、各構成要素(統率者・女性・男性・ブタ・祖先ら)がすべて「同じ素材」から切り出されたもの、すなわち「互いにつなぎ留められた複数の人格ないし諸関係の部分」であるからであって、そうしたアニミズム的な世界観が背景として横たわっているのである。

 上記引用部の最後の記述もまた、大変に重要であると思われる。メラネシアにおいて、人間と非-人間は総じて「同じ素材」からできており、それらは互いに互いを自らの部分とみなし、自らのうちに他者を包摂する一方で、おのおのはそれ自体としては、依然として存在する。道具やモノは、すべてのモノとつながりつつも自律するというズレを含んだ、準-自律的な仕方で存在するのだ。そして、そうしたネットワークにおける「ヒビ=亀裂」こそが、「個人のアイデンティティの複数の位置を差異化する」要因となる。

 メラネシアのようなアニミズム的な世界観というのはいってしまえば、「すべてがアナロジカルに接続してしまう世界」である(情報技術革命以降のわれわれの世界もまたそうであることを念頭においておこう)。「切断」はそういう状況にあって、繋がりすぎたネットワークを適度に調整するための、さらには個人のアイデンティティを確保するための、まさに創造的な行為なのだ。

 

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 図/地の反転を可能にするもうひとつの背景は、ある特定の方向をむいた社会性である。

一見したところ、バロクの宴会における互いに反転した二つの樹木は、枝と根が釣り合いを保って互いを反復複製している点で、相互に同形的(アイソモーフィック)である。(……)私たちの目には、バロクは基底=根となる隠喩(ルート・メタファー)を的確に選び出したように見える。彼らの選択の背景[図/地のさらに背後にある地]はすでにそこにある。その選択は、氏族の生殖力を新参のビッグ・マンや祖先たちからの庇護とあわせて讃えるという必要性の内にある。この基盤にある社会性(グラウンディング・ソーシャリティ)こそが、パフォーマンスが全体として実現していることに他ならず、それは根を逆さに立てたり枝を切ったりすることで、この男やあの少女たちを現れさせる個別的な行為よりも包括的である。(同, p.271.)


 たとえばバロクの人々の儀礼における「図と地の反転」をひとつのモデルとして捉えようとしたときに、このような「基盤にある社会性=図/地のさらに背後にある地」が存在することを忘れてはならない。そしてこのような共通認識は、いくら図と地が反転しようとも変化しない。増大するのはあくまでも「行為」の方であって、それによって基盤にある社会性が照明され、氏族の堅い結束がもたらされる。

 

カントールの塵が筆者の想像力をとらえたのは、それが、それ自体としては増大しない背景に対する知覚を増進させることで、出来事のあいだに空白をつくりだす一連の指示を与えてくれるからだった。(……)
 空白は私たちに、拡張することのできる場、わたしたちを補綴する装置のための空間をもたらすようにみえる。(同, pp.274-275.)

 

 儀礼に登場するすべてのオブジェクトは、「同じ素材」からなる、互いに互いを包摂するオブジェクトであった。それらは、「樹木」を様々な仕方で切り出して(切断して)造られた存在であった。ゆえに、どれだけ大量の新たなイメージがそこから生産されようとも、そのイメージはそれらを支えている足場やその素材が切り出されてくる森を拡張するものではなかった。

 儀礼そのものもまた、基盤となる社会性の上で、様々な形態をもって取りおこなわれるが、それは社会性そのものをどうにかするものではなかった。メラネシアの基盤にある社会性(ルート・メタファー)とは、いわば共同体全体の「願い」であり、儀礼はそうした基盤の上でのオブジェクトたちのダンスであって、それはメラネシアの人々を励まし、彼らに活力と生きる意味を与え、氏族を統制する秩序を整えるための行為なのである。

 

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 カントールの塵のもつ、「1/3を取り除くという過程を再帰的に繰り返す」という工程は、たしかにそうした状況と緊密に結びつく幾何学的なアイデアである。メラネシアのような世界では、空白をつくること=切断すること、がすなわち創造的な、ものをつくるという行為なのだ。そしてストラザーンはまさしくそういう仕方で、本書を書き上げた。

 

 「自己準拠的なスケーリング=完全な複製ではない反復」が、変奏しながら延々と展開していく。まさにメラネシアは、そういった世界ではないか。そしてそれがもたらすのは、すべてのオブジェクトがなんらかの仕方で、部分的に、アナロジカルにつながりあう「過剰なネットワーク」の世界である。そこでは、ネットワークの束をある形態・行為で切断し、特定の図=形象を取り出すスキルだったり、複数のオブジェクトの布置をコントロールすることで「オブジェクトの位置関係の束が織りなすイメージ」を発生させる技術だったりが要請され、かくして極めて単純な事物たちが、多様で芳醇な意味と使用可能性に開かれることになるのだ。

 ここまできてようやく、どうしようもなく近代的な身体をもったぼくらは、冒頭の儀礼をなんとか、理解することができるのである。

 

 もともとぼくはアニミズム的な世界観に共感していて、一神教よりも多神教や汎神論に興味があるのだけど、だからこそ、こうしたメラネシアの世界観は大変魅力的に映った。2年ぶりに本書を読み直し、今回は前回に比べてより楽しく読めたのだけど(この本は本当に難解でとっつきにくい)、さて、では現代の自分が生きている環境で、こうした世界を(フィクショナルな仕方でもいいから)構築していくことは可能なのだろうか?そしてそのとき、建築はどういった役割を果たすのか?、という問いが残されることとなった。なんとなくではあるが、建築の設計ということに関しては展開していけるような気がしているのだけれど、いずれにしろ時間をかけて、じっくり腰を据えて考えていきたい問題だ。

 

○この時期はほんとに温室がきれい。

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 (Mamiya RB67 Professional, Sekor 127mm F3.8, FUJICOLOR PRO160NS)