JUNE4,2018_部分的つながり①

※noteの方でまとめました

https://note.mu/tkhrohmr/n/n6d373bb5d715

https://note.mu/tkhrohmr/n/nd99aae0c42a1

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○必要があってストラザーンの「部分的つながり」を読み直しているが、やはり圧倒的に面白い。特に後半の、ニューアイルランド島のウセン・バロクの人々の儀礼を巡るテクストのドライブ感は圧巻なので、少し触れていくことにしようと思う。以前、本ブログのかなり初期の方で(もう2年も前になるのか、、)本書を取り上げたことがあったのだけど、その続きということになるのかな。

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大変重要な箇所であると思われるので、以下、バロクの人々の葬送儀礼に関する本書の記述を引用していこうとおもう。 

 バロクの人々は、男たちの小屋を含む石垣で囲われた空間で儀礼を行う(Wagner 1986b, 1987)。この空間の全体は、水平に置かれた樹木のイメージに沿って配置されている。入り口では、樹木の先端部になぞらえられる二股の木の枝が敷居をなしている。男たちの小屋の裏側には祖先たちの埋葬場所があり、この場所は氏族の根、あるいは氏族内で「枝分かれ」し地域的にまとまった母系リネージの根になぞらえられる。墓地に埋葬された遺体が完全に腐敗し切ったとき、他集団にも開かれた宴会が催され、男たちの小屋に諸々の規制を課していた期間が終わる。何頭ものブタが入り口に向けて展示され、これによって、[宴会を主宰する]氏族が数多くの成長点をもつことが示される。氏族の成長点は、[樹木][=氏族の類比物(アナログ)]の上方の枝の先端に位置しており、そこには、(彼らによれば)[招かれた]他集団の人々にごちそうされる果実[=ブタの類比物(アナログ)]が実っている。(ストラザーン, マリリン: 部分的つながり, 大杉高志+浜田明範+田口陽子+丹波充+里見龍樹訳, 水声社, 2015, pp.267-268.)

 空間的なイメージがやや難解だとおもわれるが、ストラザーンが参照しているロイ・ワグナーの1987年の論文「Figure-ground reversal among the Barok」(https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.14318/hau2.1.024)の以下の図がわかりやすい。 

 儀礼がおこなわれる石垣で囲われた空間は、樹木をイメージさせるような仕方で、複数のオブジェクトが巧みに平面方向に配置されている (Fig.1)。斜めに伸びる敷居は枝先の隠喩であり、入り口に並ぶ人々は氏族の繁栄を樹木の枝分かれになぞらえて表現されている。中央に貢がれるブタは樹木に実る果実であり、そして奥の小屋は祖先の墓=家であり、樹木の主根になぞらえて配置されたこの墓に、ある期間に亡くなった仲間たちがまとめて埋葬される。氏族の構成員たちは、敷居、石垣、ブタら、祖先らとともに、各々が異なる役割を持った構成要素となり一体化することで、まさに「樹木になる」のだ。これによって得られる結束感や高揚感は相当なものだろうなとおもう。

 このような大変知的な配置計画と、そしてそれがもたらす身体感覚によって、儀礼が担うであろうある種の魔術的な機能が達成されるのだ。

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Fig.1 儀礼空間の構成。樹木をイメージさせる平面的な配置。

 

ところが、一定期間に起こった一群の死を完結させる最後の宴会においては、この水平構造の全体が、宙に向かって垂直に立ち上げられる。この構造は、そのように[水平から垂直へと]軸を移すことで逆転されるのである。
 この移行は石垣の外で起こる。[この宴会の際には、]森から切り出された大木が上下逆さまに立てられる。その根は中空に広がり、幹は地面によって「切られ」、その下には見えない枝が広がっているかのようである。あたかもこれらの枝からぶら下がっているかのように。[宴会を主催する]リネージに属する年頃の女性たちが、逆さにされた果実のように地面に座る。そうすることで彼女らは、他氏族のリネージに婚入し、それらのリネージに養育をもたらすという、[母系社会で]通常は男性に割り当てられた役割を引き受けるのである。他方で、それまでの氏族の母なる始祖と同一視されていた主根の上では、宴会のために殺されたブタたちの上に、新たにビッグ・マンになろうとする若い男性が立つ。(同, pp.267-268.)

儀礼の終盤、クライマックスでは、実際に切り出した樹木が逆さに立てられる。水平方向から垂直方向への、大胆なイメージの逆転である(Fig.2)。このような逆転された樹木は、森に生える垂直の樹木という観念、そして石垣で囲われた空間が象徴する「水平の樹木」という観念から、順繰りに派生し成長したイメージである。であるからこそ、前段階の「水平の樹木」にて祖先の墓=家が配置されていた「主根の位置」に、今度は氏族の新たなリーダーが降臨することで、氏族の全員が彼を母なる始祖と同一視することになる、と。このように死から生へ、ダイナミックにイメージを展開したところで、儀礼は幕を閉じる。

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Fig.2 宴会でのイメージの逆転。イメージの二重性。

 

こうした儀礼のプロセスは、プロセスそのものの接続方法がまず巧みであり(樹木→平面的な樹木→倒立した樹木)、さらには各プロセスでのオブジェクトの配置と、それらが喚起するイメージの管理が的確かつ極めて建築的な所業であり、ぼくは大変感銘を受けた。いやほんとに、ものすごく建築的だなと思う。

そして、このようなバロクの人々の「図と地の反転」の儀礼に関するストラザーンの以下の記述もまた、大変明晰である。個人的には頭を殴られたような衝撃があった。

図と地の反転が、地を潜在的な図=形象(フィギュア)として掲示する限りにおいて、この反転の動きは、地から「切り取られた」図が、地につけ加えられた図ではないということを含意している。だがもちろんのこと、それらの図は断片であるわけではなく、そこに部分と全体の関係があるわけでもない。むしろ、図と地は二つの次元として働く。それらは[自己準拠的に]自らを自らのスケールとするのだ。言うなれば、二つのパースペクティブではなく、地はまた別の図であり、図はまた別の地であるというように、二度向けられた一つのパースペクティブである。一方は他方との関係において不変なものとして振る舞うので、これらの次元は決して全体化する仕方で構成されることがない。量や生命が、一方の次元で増大することなく他方の次元で増大しうるという知覚は、このことに由来している。関係の彫琢=展開において、増大するのは彫琢=展開であり、関係ではない(同, pp.270-271)。

 このストラザーンの指摘を、噛み砕きながら解釈していってみよう。

 

 まず本儀式のクライマックスでは、逆さの樹木を立てかけることで、

1. 文字通り地中の木の根を露出することで、樹木が常に根(=祖先の類比物)によって支えられていたことを明示する。

2. 水平方向の構造によって提示された図=形象(Fig.1)から垂直へと軸を移すことで(Fig.2)、各構成要素(統率者・女性・男性・ブタ・祖先)の配置を変更し、前者に取って代わる新たな図=形象(リーダーを讃える形象)を切り出している。

という、リテラルな意味作用と、束ねられた複数のオブジェクトの位置関係が織りなす意味作用の二重化がまず起こっているいる。このとき、前者では「通常の樹木」と「逆さの樹木」という文字通りのフィジカルな逆転が起こっているわけだが、後者の「オブジェクトの位置関係が織りなす意味作用」という層においてもまた、図と地のダイナミックな反転が起こっている。文字通りの(フィジカルな)水準と隠喩的(メタフィジカル)な水準、その両方で逆転が発生し、逆転そのものが二重化されていることに留意しよう。複雑な意味作用の変遷がフィジカルのダイナミズムと連動することで空間の緊張感を一気に高め、儀礼のピークを演出しつつ、クライマックスを全構成員が一丸となってパフォーマンスしているのである。 ここでは石垣で囲われた空間=水平の樹木(Fig.1)における各構成要素の配置を解きほぐし、同一のオブジェクトを別の諸関係へと配置し直すための人工的な装置として「逆さの樹木」が機能している(Fig.2)。「水平の樹木」(Fig.1)と「逆さの樹木」(Fig.2)は、同一の構成要素からなるという意味で「うさぎあひる図」(Fig.3)のような図と地の反転関係にあるといえる。両者の関係をストラザーンは「2通りに眺められるひとつのパースペクティブ(=「言うなれば、二つのパースペクティブではなく、地はまた別の図であり、図はまた別の地であるというように、二度向けられた一つのパースペクティブである」, p.270)と表現するのだ。

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Fig.3 うさぎあひる図

 

 モノの配置が別様に推移することで、各々のモノが担う役割は変容し、複数化している。バロクの人々は、うんざりするくらい多種類のオブジェクトに囲まれるぼくらとは対象的に、現にそこにある、限られたモノしか用いることができない。がしかし、「彼らは現にあるものを用いて、新たな情報を生み出し、他者に刻み込みたいと願う差異の新たな貯蔵庫を作り出す」(p.272)。

 さらに、ここで増大するのは「関係」そのものではなく(差異が加算されているわけではなく)、彫琢=展開(Elaboration)であり、すなわち諸オブジェクトのもつ布置の読み替え・書き換えの”展開”の連続なのである、とストラザーンはいう。

 

 こうした魅惑的な図と地の反転を、集団的儀礼のなかで意識的に用いる場合、モノや道具の形態が誘発するイメージの操作に関する相当なスキルが要求される、と、これは想像にたやすい。では、一体どのような文化的背景がそれを可能にするのだろうか。

(明日に続く) 

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こうした論考系の記事の場合、写真を載っけるかどうかいつも悩む。

 

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 (Mamiya RB67 Professional, Sekor 127mm F3.8, FUJICOLOR PRO 400H)