170609 写真についてのノート② プンクトゥムについて

写真についてのノート②

●前回からの続き。バルトの「プンクトゥム」を補助線に、“眼”をいかに制作していくのかという方法論について。

写真を、自分がそのときに見ているイメージに近づけるようなかたちで撮ることは、なんだかつまらない気がする。なぜなら、ぼくが制作しているのは写真ではなく実は“眼”のほうであり、写真が現実のイメージに近ければ近いほど、それを見たときの、ぼくの“眼”への異化作用がそれほど期待できなくなってしまうから。だから、できることならば自分は何も決断せずに、カメラというオブジェクトに、何を・どのように・どういった画面で撮るのかを一任して、勝手に写真ができあがればいいのになと思う。そしてその写真をみて、ああこうやって街をみることができたんだなと、素朴に驚きたいなと思う。でもそういうわけにはいかなくて、写真をとるためには、ぼくは「何か」を撮る必要があるし、「何を撮るのか」を決断しなくてはいけない。「何を撮るのか」を決断することは、まぁしょうがない、あきらめてやるとして、だったらぼくはその写真に、ぼくが自ら撮ろうと決断し実際に写った被写体だけではなくて、ぼくがまったくもって予想だにしていなかった「何か」が、まったくの偶然に、そこに写り込んでいてほしいなと思う。たとえば下の写真でぼくは、近所の銀色のボディーカバーで覆われた車になんとなく愛着を感じ、撮ろうと決断した。そしてそれを、現に撮影した。でも現像が返ってきてこの写真をみたぼくは、自分の選んだ被写体がうまく撮れているかどうかよりも、むしろこの右下に写り込んでしまった謎の物体に強く惹かれてしまった。これは撮ろうと思って撮ったわけではなく、車を撮るときに偶然写り込んでしまった物体だから、ぼくはこれが何かはわからない。木の枝のようにも見えるし、何かのコードのようにも見える。でも木の枝だとすれば、なぜ、どういう経緯でここにあったのか、疑問に思う。あぁそういえば近くに庭があったなと、この写真を撮影した場所周辺の風景を思い出す。しかしコードの類であれば、これは事件である。ひょっとしてなわとびか?奇妙だなと頭をひねる。

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●ただひとつ言えることは、この写真が示すのは、この謎の物体が「かつてそこにあった」ことの確かさであり、それがぼくの意志とは無関係にこの写真に侵入し、ぼくの意識をひっかきまわしているということである。木の枝は、この写真のフレームの外側に世界があるということの証明であり、“写されなかったモノ”の痕跡であり、フレームの外側の世界への窓である。写真が、この木の枝をぼくに突きつけたことにより、ぼくは別のしかたでの世界の見方を獲得した、といえる。ぼくの“眼”は、ささいではあるけども、別様へと生まれ変わったのだと。明日ぼくはこの場所にいき、銀色のボディーカバーで覆われた車ではなく、まず木の枝を探すだろう。そして木の枝がなかった場合、おそらく近隣の庭、もしくは空き地を探索するだろう。写真に偶然入り込んでしまった木の枝=外部、により、ぼくの未来はちょっとだけゆがめられ、ぼくは明日、昨日とは違った視点から写真を撮ることとなる。

以上が、この写真をみて感じとったことである。文字にしてみると奇妙なものだ。この奇妙で切実な気づきにより、この何でもない写真は、「僕にとっては」大切な写真となった。多分これが、ぼくにとっての写真の、理想的な形式のひとつだと思う。

●この感じを、もっとわかりやすく言語化してくれているのは、いわずもがなロラン・バルトである。写真には、作者が細部まで制御可能な絵画やテクストとは異なり、純粋に偶然に、「ふいに何かをとらえてしまう」という特性がある。この、「写真がふいにとらえてしまった謎の物体X」のようなものを、バルトは著書『明るい部屋』のなかで、「プンクトゥム」と呼んだ。逆に、それが何ものかであるか明確で、一般的関心をひくものを、バルトは「ストゥディウム」と呼んだ。ぼくは、写真の主題=ストゥディウムと、意図せず写り込んでしまった細部=プンクトゥムが、それぞれ独立して存在していて、どちらとも興味深く写っており、お互いが響き合って、何気ない風景やモノに新鮮な意味を与えてくれるような写真が好きだ。そういった写真のほうが、自分の既存の視覚に最も強烈なショックを与えてくれるような気がするし、そういった写真には、既知を未知に変えてくれるような、そういう種類の力があると思う。「他者」や「偶然性」、あるいは「無意識」といったものを導入するということは、建築や絵画をはじめとした他のメディアでは容易ではないことで、たとえばシュルレアリスムはそれを目指していたわけだけど、写真では結構かんたんにできるのだなと、ぼくは驚愕したのだ。アマチュアが何気なく撮った写真でさえ、シュルレアリスムや現代建築が目指していたものを、いとも容易く実現しているのだ(あくまでも、撮影者個人にとっては、だけど)。マン・レイがアジェに注目したのも、きっとそういう理由なのだろう。

●プンクトゥムを撮りたい。でも撮ろうと意図した瞬間に、それはプンクトゥムではなくなり、ぼくが意図したものになってしまう。それに、この木の枝は、写真を取った主体=ぼく以外の鑑賞者にとって、プンクトゥムになり得るだろうかという疑問も残る。簡単に見過ごされてしまうものなのではないか、と。

では、できるだけプンクトゥムを、世界からの不意打ちを、撮影者以外の、鑑賞者たる他者にも共有できるようなかたちで写真に実装するためにはどうすればいいのだろうか。そうした写真を取るための方法論や形式は、はたして存在するのだろうか?

●バルトの『明るい部屋』を、もう少し詳しく読んでみよう。

《第一の要素は、明らかに、ある広がりをもつものである。それは、私が自分の知識や教養に関してかなり日常的に認めているような、ある一つの場の広がりを持つ。その場は、写真家の技術や運不運によって、様式化に程度の差があり、出来ばえにも程度の差があるが、しかし必ず、ある典型的な情報に関係している。(……)私はそうした写真に対して、一種の一般的関心、ときには感動に満ちた関心をいだくことができるが、しかしその感動は、道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとしている。そうした写真に対して私が感ずる感情は、平均的な感情に属し、ほとんどしつけから生ずると言ってよい。フランス語には、この種の人間的関心を簡潔に表現する語が見当らない。しかし、ラテン語にはそれがある、と私は思う。それは、ストゥディウム(studium)という語である。》(ロラン・バルト『明るい部屋』, pp.37-38)

ストゥディウムは、写真におけるコード化された被写体である。そして多くの場合、ストゥディウムは写真の主題であり、“撮影者の明確な意図”でもって撮影された被写体である。

《第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない。写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた標識を表す語がある。(……)ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum)と呼ぶことにしたい。(……)ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す偶然なのである。》(同, pp.38-39)

さらに、

《たいていの場合、プンクトゥムは〈細部〉である。つまり、部分的な対象である。》(同, p.58)

また、

《プンクトゥムは、どれほど電撃的なものであっても、多かれ少なかれ潜在的に、ある拡大の能力をもつ。この能力は、往々にして換喩的に働く。》(同, p.59)

《ごく普通に単一のものである写真の空間のなかで、ときおり(といっても、残念ながら、めったにないが)、ある〈細部〉が、私を引きつける。その細部が存在するだけで、私の読み取りは一変し、現に眺めている写真が、新しい写真となって、私の目にはより高い価値をおびて見えるような気がする。そうした〈細部〉が、プンクトゥムなのである。》(同, p.56)

コード化され、意味が固定されたストゥディウムと、複数の意味に対し、メトニミー的に開かれたプンクトゥム。プンクトゥムは単一の、かけがえのない存在である一方で、換喩的にはたらくことで、「代替的」に他のオブジェクトを呼び寄せる。

上記の写真の例でいくと、右下の謎のオブジェクトは、明らかに単体の物体であり、写真はこれがかつて確定的に存在していたことを保証する。しかしこれは、"無意識のうちにに写してしまったモノ"ゆえに、特定の何かとして断定することができず、結果として謎の物体Xとしか言明できない存在となる。写真というメディウムに特有の現象だが、この「実在を保証されつつもそれが何か断定できない」という細部の性質がポイントとなる。

この謎の物体Xによって換喩的に召喚されるイメージは、木であり、庭でもあり、庭師でもあり、剪定ばさみでもありうる。一方でそれは、電気コードであり、電気コードに付随するコタツでもあり、扇風機でもありうるし、ある人には縄跳びであり、縄跳びを使う子供でもあり、縄跳びを使って遊ぶ子供のいる駐車場の風景でもありうるのだ。

●注意しなければいけないのは、両者はしばしば二元論的に語られてしまうけど、まったくそんなことはないということだ。

《ストゥディウムとプンクトゥムの関係(この後者が見出される場合)に、規則を定めることは不可能である。重要なのは、両者が共存するということであり、言えるのは、ただこれだけである。》(同, pp.56-57)

ストゥディウムとプンクトゥムは、二元論とは断定できない関係にある。“ただ共存している”としか言えない。言い換えればこれは、両者の概念が、“様々なしかた”で共存しうるということである。両者は対立関係とも、トートロジーとも、対照関係とも、 弁証法的関係ともいえないが、あるときには対立関係にも、トートロジーにも、対照関係にも、 弁証法的関係にもなりうる。共存の仕方に対して開かれた、あるいは変化しうる関係。個人的には、ライヒのエレクトリック・カウンターポイントを一例として思い浮かべた。複数の旋律が、独立性を保ちながら存在していて、主従が転覆しうるような関係。メセニーはいい仕事してる。

 ●プンクトゥムを召喚するため、バルトがオススメしている写真の見方は次のようなものである。

《結局のところーーあるいは、極限においてはーー写真をよく見るためには、写真から顔を上げてしまうか、または目を閉じてしまうほうがよいのだ。(……)写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、〈技巧〉、〈現実〉、〈ルポルタージュ〉、〈芸術〉、等々から引き離されたときである。何も言わず、目を閉じて、ただ細部だけが感情的意識のうちに浮かび上がっってくるようにすること。》(同, p.67)

まず写真をみる。このとき、分析は役に立たないので必要ない。ただ、“ゆっくり”映像を真正面から受け止めるだけで十分である。それから、写真から目をはなしてみて、しばらく時間が経ったあとでもいい、あるいは目を閉じてもいい、その写真のことを思い出してみよう。できればその写真にあった、印象的な、それでいて名付けえぬ細部を思い出してみて、その細部が引っ張ってくる、さまざまな情景やイメージのことを想像してみよう。それから再び写真をみると、その写真から、以前とは異なる意味、異なるイメージ、異なる感動、異なる魅力を見出すことができるかもしれない。このとき、当然だけど、写真はまったく変化していない。変化しているのは、“眼”のほうである。

●ストゥディウムとプンクトゥムに関するバルトの記述を簡単に確認し、さらに両者が対位法的な関係にあり、様々なかたちで共存し、フィードバックしあうことを考察した。バルトのこの指摘は、ぼくたちがある写真に“魅了”されるときの構造を、とてもクリアに示してくれていると思う。ある写真に、自分でも理由がわからないまま魅惑されている状態や、よく分からないが気になって仕方がないというような状態は、非常に言語化しにくい。しかし、理論化や形式化ができなければ、いつまでたっても"勘”に頼るしかないということになる。その点、バルトはこの状態をストゥディウムとプンクトゥム、つまり「意味が明白な全体←→謎の細部」のループ状態として明確に描き出している。

とはいえバルトが提示しているのはあくまで「見方」という水準でのことである。「制作論」に関してはほとんど何も説明していない。むしろ放り出しているといってもいい。何しろバルトは、こと「プンクトゥム」の有無ということに関しては、アマチュアが撮った写真と高名な写真家が「制作」した写真に、決して優劣をつけないのだから(まさにそこでは、「作者の死」が起こっている)。しかし、それでは「なんでもかまわない」となっていしまい、ぼくらは創造的に、かつ自由に何かを制作し、そこでの感動を誰かと共有することができなくなってしまうだろう。「プンクトゥム」のことはあきらめて、「なんであれかまわない」ように撮影したいものを撮影し、事後的な発見に身を任せる。そうした、いわば「受動的な眼の制作」は前回述べた通り、それはそれで意義ある行為であるけれど、ここではあえてもう少し欲張ってみたいと思う。

●バルトの提示した概念をもう少し推し進めてみて、「方法論」への彫琢を試みる。「受動的な眼の制作」から、「能動的な眼の制作」の方へ向かって、換喩的な想像力をともなう均衡への違反・侵略・冒険を積極的に仮構するための方法を考えてみよう。

「プンクトゥム」と「ストゥディウム」の関係について今一度整理すると、まずプンクトゥムによって、あるいはプンクトゥムが開くイメージの束によって、ストゥディウムの意味は複数的に変化しうるということだった。両者の関係は円環状で、パースペクティブはプンクトゥムを経由することでストゥディウムに回帰し、再び別のプンクトゥムへ、、、と、ここではフィードバックループが発生しうる。部分と全体を往還し続けることで、イメージが「壊れ」続けるのだ。このモデルは、相互に包摂し合う「図と地」関係にある複数のオブジェクトの組み合わせであるとパラフレーズできる。「プンクトゥム」と「ストゥディウム」の関係を人為的に制作する形式というものがもしあるとすれば(多分に矛盾をもった仮説だけれど)、この一点に突破口が見出しうるのではないか。つまり、「図」と「地」をどういったバランスで配置するか、どんな性質を持ったオブジェクトをどういった力関係で撮るか、そのとき「図」は「地」化しうるか、「地」は「図」化しうるかどうか、といった問題である。

 

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△ネッカーキューブ   

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△うさぎあひる図

   

たとえば (少々手垢が付きすぎている気はするが) 上に示した「ネッカーキューブ」にしろ、「うさぎあひる図」にしろ、「図と地」の関係が反転する場合には必ずある「かたち」、あるいは「バランス」が必要となる。「図」となるオブジェクトは対象化しうるに十分な「強さ」をもつ必要があるが(それは美しさかもしれないし、内容のショッキングさかもしれない)、「地」と交換されうる可能性もまた、もっていなければいけない。それらは完全に自律しているのではなく(その場合「写真の見方」は固定される)、準-自律的な状態で複数的に印画紙に併置されている必要がある。ここがポイントだ。図と地の関係は適当にやっていても決して成立しないもので、いわば精密な「設計」を要求する。写真の場合、具体的かつ実在するオブジェクトを撮る必要があるから、相互包摂する「図と地」の設計は容易ではない。容易ではないけれど、少なくともぼくらはここから、制作論にむけて一歩進むことができるはずだ。それは単なる概念でもなく、「なんであれかまわないもの」でもなく、「見方のコツ」でもなく、「かたち」の問題なのだから。写真に内在する時間的な問題。色彩の美しさ。モノに付着した社会的な意味や、無意味さ。形態の愉快さ。構図の技法、プリントの技術、デジタル的な操作。これらは全て、「図と地」制作のための道具となりうるはずだ。知覚に関する現象学的な探求を止めず、“眼”と真摯に向き合いながら絶えず再帰的なまなざしを向け続けていけば、それは可能になるはずである。そこでの「形式」は、複数的かつ多様な見方を保証する補助線であり、それ自体複数的に存在するものである。

 

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