170523 アピチャッポン

この後めちゃめちゃ吠えられた。

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フィルムはektar100。色が深く、リバーサルみたい。

リバーサルフィルム、そろそろ使ってみたいなぁと思っている。僕は晩年の中平卓馬さん(植物図鑑、以後の)のような写真を撮ってみたいと思っているんだけど、中平さんはずっとリバーサルを使用されていたみたいだから。

 

 

一昨日になるけど、池袋の新文芸坐に、アピチャッポン・ウィーラセタクンのオールナイト上映にいってきた。「世紀の光」「ブンミおじさんの森」「光の墓」の3本だて。機会に恵まれず見れていなかったアピチャッポン映画、とても楽しみにしていたけど、3本とも期待にそぐわず最高に面白かった。

「世紀の光」はとても形式的な構成の映画で、前半ではタイの農村にある病院を舞台にしているけど、後半では前半のエピソードをトレースするように、ほとんど同じ俳優が、同じようなエピソードを、今度は都市部の病院でやっていく。前半は本当にただただ美しいというか、タイの湿り気のある空気を肌に感じるような、あるいは自分の肉体がそこに投影されるような感覚を受けた。登場人物はただ他愛のない会話をしたり、ちょっと甘酸っぱい恋愛をしたりするくらいで、物語的に何がおこるということではないけれど、とにかく描写が美しいから、ユートピア的というか、天国みたいな印象の映像になっていた。お花屋さんの男性の書斎の空間がとてもよかった。途中のギター演奏も最高。それと僕が富山の田舎育ちだからかもしれないけれど、デジャブ感というか、懐かしい感じ、記憶が呼び覚まされる感じがした。

打って変わって後半の都市部でのエピソードは、白く人工的、近代的な空間で物語が展開する。前半とは対比的に、不気味で、非身体的、冷たい空間描写。登場人物がほとんど同じだから、パラレルワールドなのか、それとも前世と来世のはなしなのか、あるいはさっきの農村の生活は夢だったのか、と混乱する。しかし、実に他愛のないエピソードたちは、この全く異なる2つの文脈、性質の異なる2つの空間に据えられることで、不気味で全体主義的・抑圧的な都市空間とユートピア的な農村空間の差異を明確に提示する。

これは単純にアーバニゼーションへの批判ともとれるし、あるいはどんな場所でも、人間やることは結局そこまで変わらないというメッセージなのかもしれない。でも映画の最後は、公園でおばさんおじさんたちがビリーズ・ブート・キャンプ的エクササイズをやっているところでおわる( Neil & Iraizaの「Fez」にのせて)。このシーン、めちゃくちゃ楽しいし、映画史に残る素晴らしいラストシーンだと思ったけど、あれだけ都市の不気味さを描いておいて、この楽しい映像で終わるということは一体どういうことなのか。僕は都市空間ならではの身体性みたいなものを表現しているのかなと思ったし、というか、そういうものを模索せよ、ということなのかなと考えていた。そういえば後半には「都市空間ならではの奇妙な身体性」みたいなものがいくつか挟み込まれていた。病院の地下、音が響き渡る廊下でテニスの壁打ちをする青年。隠れてコソコソとキスをし、男の股間がもっこりしてきて微笑み合うカップル。など。

 

感慨にふける間もなく10分くらいで次の映画へ。オールナイト上映、超ハードだ。情報量が凄まじい。アピチャッポンの映画は一貫して「夢」や「幽霊」、「輪廻転生」みたいなものがテーマになっていて、「ブンミおじさんの森」ではごく普通に非人間が登場し、登場人物もそれを普通に受け入れて生活していたりする。

ブンミおじさんの森

ブンミおじさんの森とは編集

 

また、「前世」というセリフが度々登場していて、実際に冒頭のウシのシーンは主人公の前世のお話みたいだし、途中で挟み込まれる「とある国の王女様がナマズとセックスするシーン」も、前世のお話らしい(そんなんわかるか!)。唐突に意味不明なシーンがはさみこまれたり、あるいは意味不明な状況にみんなが平然としていたりって、どっかにみたことあるなぁ…って思っていたら、そうか夢の中だと気づいた。夢ってそういう感じだよなって。アピチャッポンがこの映画で表現し、観客が体験するのは、僕らが日々経験しているけど忘れている「夢空間」そのものなんだと思う。おそらく映画のエピソードも、アピチャッポン自身が実際にみた夢がモチーフになっているんじゃないか(それくらい唐突)。毎日見るけど、起きて数分すると例外なく忘れてしまう「夢」を、映画というオブジェクトに封じ込めるということ自体が面白いし、僕らがそれを追体験するということもなんだか不思議な感じがするけど、夢の持っている、「忘れているけど、確かに毎日経験している」という性質は、前世の記憶、というテーマとも響き合う。「私は前世で何者かであった。今は忘れているだけだ、日々みる夢のように。」みたいなことで。あと、アピチャッポンの映画には独特のユーモアがあって、間のとり方とか、拷問に近いほど長かったりして、かなり笑える。松本人志はこういう映画を撮るべきだったのではないかと思ったりする。

最新作の「光の墓」も「夢」を扱った映画だけど、もっと客観的に、映画のなかの道具立てとして「夢」を扱っていく。具体的には、長い夢を見てしまい起きられなくなってしまう「眠り病」にかかった人々を描いたお話で、主人公のジェン(3作全てに出演!)は患者のひとりである男性と友達になるが、彼と触れ合っているうちに彼の夢のなかへ、あるいは彼の夢のなかの夢のなかへ、迷い込んでいってしまう。起きたと思ったらまだ夢の中だった…!!という入れ子状の夢。これは伊藤潤二の「長い夢」を思い出す内容だけど、ホラーとしては描かれず、もっと楽観的な感じ。ちなみにこの映画、というかアピチャッポンの映画全般にいえるんだけど、とにかくカメラが動かない。まじで全然動かない&長回しだから、ほとんど写真集を見ているような感覚の映像になっている。カウリスマキの「街のあかり」が近いだろうか。アハ体験的にちょっとずつ動く写真をペラペラとめくっていくような体験。それ自体はとっても面白いんだけど、オールナイト上映の3作目でこれをやられると、とにかく眠くなる!!というかちょっと寝てしまった。しかし、「あぁ寝ちゃった…けっこう寝ちゃったかなぁこれ…」と思って目を覚ましたら、まだ画面が切り替わっていなかった、という衝撃的な体験を僕はしました。しかし、この眠たくなった理由はオールナイト上映だからとかでは多分なくて、この映像表現の構造自体にあり、つまりは監督のアピチャッポンの狙いそのものだと思えてならない。つまり、観客はちょっとウトウトすることで、主人公ジェンの体験する入れ子状の夢の中へ、実際に「参加」することになる。この、観客を物語のなかに動員する映画の構造そのものがこの映画のミソで、魔術的なギミックなのであり、実際にちょっと寝ちゃった観客(僕のことだけど)は凄まじく奇妙な経験をすることになる(どこまでが自分の夢のなかのセリフで、どこまでが映画のなかで実際に発せられたセリフなのか。いまでもあやふやになっている)。

長々と書いてきたけど、これくらいにしておこう。まだまだ書き足りないけれども…。

アピチャッポンの映画に近い感覚を去年もしたなーと思ったけど、「VILLAGE ON THE VILLAGE」だった。非人間が平然と物語に関係してくるところや、スローなテンポ、あるいはユートピア的な、夢を見ているような感覚。すごく、近いと思う。

 

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