SEPT.16,2019_Once Upon a Time

 富山から来てくれた両親に展示を案内。祝日ということもあり、その後も見に来てくれた知人や後輩に簡単に案の説明を。何度か自分たちの展示の説明をおこなっているうちに、なるほど、こういう順序で説明していけばいいんだなということを(あるいはここがわかりにくいところなんだなというところとかを)掴んでくる。リアルタイムで反応をもらえるということは本当に勉強になる。今回のぼくらの提案、プレゼンの比重は外形のつくりかたに傾いていて内部空間のことはほぼ説明していない。のだけれど、理解していただきたいのは、外形をつくるということは(まちのなかでの建ち方、外観をみた印象、周辺の構造物との寸法や色の関係性などの吟味)は、直接的に内部空間をつくるということに結びついているということだ。間接的に、ではない。外形をみるという経験と内部での経験がなめらかに連続しているということ、各々に個別のコンセプトがあるわけではないこと、が、模型だとなかなか伝えにくい。

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 先日、タランティーノの「Once Upon a Time... in Hollywood」(2019)をみた。今回もしっかりおもしろかった。SDレビューで展示しているプロジェクトに一緒に取り組んでいる齋藤とも話したことなのだけど、映画としての解像度が粗い部分と丁寧な部分がどっちもあるような、いわば「うまさ」それ自体をコントロールしているようなところが、自分たちのやろうとしていることに近いかもしれない、と思った。前回扱ったADVVTもそういうところがあって、ものすごく凝っているディテールもあればすごく適当なところもある。そういう判断はランダムにしているわけではもちろんなく、丁寧に細部が詰められている部分は緊張感のあるピリッとした空気感や清潔な印象をまとうし、即興的にラフにつくっているような空間は汚してもいいような、だらしなく生活しても許されるような雰囲気を携える。ぼくがやりたいのは、どこからどこまでも目地が完璧に揃っていて細部も完璧に納まってるたぐいの建物でもなければ単にブルータルな建物でもなく、たとえば室の用途や求められる雰囲気に合わせて納まりの「うまさ」みたいなものそれ自体がコントロール対象になっている、ようなことだ。タランティーノの映画にはそういうところがある気がする。終わることのない技術競争、「うまさ」のチキンレースみたいなものから、彼は早々に(もしくは映画をつくりはじめたその当初から)降りている。

 この映画はわりと終始だらっと物語的な起伏なしに進んでいくのだけど、登場人物の造形が魅力的なので無理なく見ることができる。現実に起こった事件への介入もうまい。ほとんどの人はシャロン・テートの事件の結末を知っているので、映画が始まった当初はどんな日常的な場面でもハラハラしながら見ることになるのだが、強調されるのはあくまでシャロン自身の人となりのキュートさなので、映画をみているうちに事件のことはいつの間にか忘れ、彼女の表情や初々しい感じの動作に不思議と引き込まれていく。シャロンのキャラクター造形の丁寧さに比べ、マンソン・ファミリーの面々の行動原理は終始薄っぺらく、ロマン・ポランスキーに至ってはほとんど存在感がないように描かれていて、これが功を奏していた。マンソン・ファミリーによって惨殺された悲劇の女優、や、ポランスキーの奥さん、みたいなレッテルをシャロン・テートから引き剥がし、彼女の生それ自体に光をあてること、へのタランティーノ強い意志を感じたのだった。

 あとブラピが演じるクリフがめちゃくちゃよかった。クリフが最強である(この映画のなかでは絶対に死なない)という確信を得るのが、彼が単身マンソン・ファミリーの本拠地に乗り込み無傷で生還するシーンだ。決闘を思わせるようなこのシーンは、リック(デカプリオ)が西部劇を撮影する場面と対比されリアリティが増していた(「フィクションのなかのフィクション」に「フィクションのなかのリアル」を対置させ、後者の現実味を高めるというタランティーノがよく使う手段)。リックの西部劇の撮影シーンも、シャロンが自分が出てる映画を映画館で見るシーンも、どちらも素晴らしかった。映画のなかの映画、みたいな入れ子構造にはいつもどうしても惹かれてしまう。

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PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm/F2.4, FUJI PRO400H