APR.12.2019_やわらかいからだ

 助教の先生と話していて思いつきでしゃべっていたことのメモ。何かを批評したり、論じたりしたりするとき(とりわけ建築について論じるとき)、あらかじめ安定的に統一された「私」を措定することも、あるいは逆に「私」を完全に排除して(したことにして)外部からの物差しを対象に当てはめるような態度も、両方ともぼくは違和感がある、みたいだ。なにか対象を論じるときに、完全なる安全圏から眺めるということは不可能で、対象を観察している限り、私という存在は必ず対象にも影響を及ぼしている(だから私の身体が対象に及ぼす影響をまったく思考の勘定に入れずに対象を論じることは欺瞞だ)。とはいえ、素朴に一人称的に対象を語ることも許されない、と思う。じゃあどういう方法が考えられるのかというと、まずは、あらかじめ安定して統合された「私」なるものをときほぐした状態で物事を観察することなのだと思う。足、腕、指、目、耳、肌、内蔵...、といった、私を構成している各部分を、自律したオブジェクト群としてひとまず仮止めしておくこと(もちろんこういう区分も便宜的なものなわけだけど)。その状態で世界と向き合うこと。つまり、私の身体を構成する各部分が世界と接触して取得する情報を、まずはありのままに(統合しないまま)書き出してみることだ。たとえば、足が靴下ごしに感じるフローリングの反発、目がみているものの色、耳がきいている空間のおおきさ、肌が感じている流れ、内臓が訴えてくる澱んだ気配、指先がいつのまにか作っていたカタチ、を、ひとまずそのまま書き出してみる。そして、そうしたバラバラな感触の束みたいなものが、あーでもないこーでもないとディスカッションし合えるような場を用意してあげるということが(ぼくにとってはとりわけ建築経験を)批評するということなのだと思う。おおげさに表現すればそういうことになる気がする。

 身体を構成する各部分は、おのおのにユニークな仕方で世界と接触している。ぼくらは自らの身体の各部分をばらばらに投げ出し、それらを素材にして、自分を取り巻く環境を理解している、と思う。ぼくがいっていることは「見聞きした経験だけで環境を分析すること」をどこまでも徹底する、みたいな、とても単純なことなのかもしれない。みて、きいたことを素材にして物事を考えるということを過激に遂行すること。そのためにはまず、なによりもまず柔軟なからだが必要だ。その先に、身体の各部分はてんでばらばらな文法で語りだし、各々勝手に参考文献を引用をしはじめて、独自の物差し(スケール)で対象を測りだすかもしれない。でもそれでいい、まずは書き出すことだ。それは人間が普段、無意識のうちに環境と向き合って生きている状態を、少しだけ高い解像度で描き出すことだから。その作業は、とても専門的な知性が必要な行為だとぼくは考えているし、なによりそれは、建築を「精確に組み立てる」ことに直結する問題であると思われる。

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Contax S2, Carl Zeiss Planar T* 1.7/50, Kodak Ektachrome E100