170608 写真のためのノート① 目の制作について

写真のためのノート①

●僕は写真はまるっきり門外漢なのだけど、このごろ写真を撮っていて、実際撮るからこそ気づくこととか感じたことが色々あったので、言語化してみようかと思う(何パートで完結するかわからないけれど)。写真を通した、建築へのアプローチでもある。

●写真とは、自分が今見ている世界をそっくりそのまま記録したものではなくて、あくまでカメラから見た世界の記録である。写真とは、世界の「見方」のひとつの方法である。写真が写す世界の主体は人間ではなく、あくまでカメラというオブジェクトのほうにあって(ソンタグが〝Photography is, first of all, a way of seeing. It is not seeing itself〟といっているように)、それによってもたらされるものは、“人の目”による凝り固まった世界像の、ゆるやかな解体である。たとえば人間の目は、映るものすべてにピントをあわせることができない。あくまでも「一部」にしかピントをあわせることができないという制約のなかで、右をみて、左をみて、奥をみて、手前をみて、全体をぼんやり俯瞰し、部分を精密にながめ、そうした一連の運動のなかで獲得した情報を頭のなかで統合し、目の前の風景を見ている。一方で、カメラによって平面上のフィルムに焼き付けられた風景には、スミからスミまで均質な時間が埋蔵されている。風景を一挙に見るという経験は現実には不可能であり、カメラで写真をとり、それを眺めることで初めて可能になるものである(正確には写真を見る際にも、人間の視覚の不均質さは発揮されるわけだけど)。写真は人間が見た世界のコピーではない。また、絵画の模倣でもない。こうした写真の固有性をめぐる議論は、写真が芸術として確立する19世紀に積極的に起こったもので、たとえばスティーグリッツに代表される「ストレート・フォト」は、絵画性を排除し、人間的な意味付けや表象の次元を否定した上で、カメラというオブジェクトによるありのままの現実を標榜した*。そして、たとえばウォーカー・エバンスはストレート・フォトをさらに推し進め、「ドキュメンタリー」としての写真の価値を徹底して追求する。

f:id:o_tkhr:20170530225202j:plain *Alfred Stieglitz

●ちなみにストレート・フォトにより糾弾されたのは、写真を芸術として確立する際に生まれた、絵画的表現を目指す「ピクトリアリズム」という潮流だ。写真は世界を正確に記録できるメディアとして誕生するものの、当初は芸術として認められていなかった。そこで、写真家は絵画的な表現を積極的に取り入れ、芸術としての写真を目指す。しかしその後、写真というメディアの固有性を追求するなかで、結局はストレートフォトというスタイルが生まれ、絵画的表現を否定するに至るわけだ。つまり、「記録としての素朴な写真」から、「絵画的表現を取り込んだ芸術としての写真」を一旦経由して、固有性としての記録性を重視する「モダニズム」が誕生する、という流れである。その後はカルティエブレッソンに代表される「決定的瞬間」や、エグルストンやスティーブン・ショアの「ニューカラー」といった、モダニズム的表現の洗練が進んでいくわけだけど、現代ではデジタル写真や、Webによるのイメージの流通によって、写真の固有性だと信じられていた「記録性」は揺るぎ、「写真は真実を写すものではない」ことを前提とする時代、つまりポストモダンの時代に突入している。建築を始めとした他の分野とは異なり、フィルムという物質の有限性を前提とした「もっともらしさ」「真実っぽさ」がそのアイデンティティであった写真のモダニティは、デジタルメディアの普及によって脆くも崩れ去り、強制的にポストモダニズムに突入してしまっているところが、とてもおもしろい。建築の場合には、ポストモダニズムに写真ほどの必然性と切実さはなかった。そしてだからこそ、衰退してしまった。

●強引に写真表現の展開をまとめると、「素朴な記録としての写真(最初期の写真)」→「反記録としての絵画主義(ピクトリアリズム)」→「やっぱり記録性が本質(ストレート・フォト=モダニズム)」→「写真の記録性を超越した写真表現の追求」、って感じか。ちなみに、ピクトリアリズムの写真は絵画的表現に軸足をおいているけど、実際には絵画ではなく写真なわけで、結果的にだけど、写真と絵画の折衷のような(今からしてみると)面白い画が作られていて、ぼくは結構好きだ。写真の登場により、古典的な絵画表現は方向転換を余儀なくされ、「写実的な表現」を捨てざるを得なくなり、結果キュビズムのような非遠近法的表現に向かっていくわけだけど、一方で、絵画から写実性を奪い去り、ピクトリアリズムのような「写実的な絵」としての表現として確立した写真のほうは、自らピクトリアリズムを否定している。これはすごくおもしろくて、写真と現代絵画が実はその出自からしてほとんど表裏一体の兄弟みたいなものだとわかる。さらに「ピクトリアリズム」は、その両者に否定されてしまった空白地帯である。さて、写真のモダニティが否定されポストモダンに突入した現在、翻ってこの空白地帯=ピクトリアリズム的な表現を見直し、発掘して、デジタルツールの仕様も含めて発展させていくという可能性が現実味を帯びてくるわけだけど(ちなみに清水穣が『写真と日々』のなかで、鈴木理策の写真をピクトリアリズムの現代版としてとりあげていて、とてもおもしろかった)、それはまた別の話。

●なんだか話がものすごくそれてしまっているけど、ぼくがここで言いたかったのは、写真というものと、人間の視覚のあいだの、絶対的な隔たりである(ここまでのはなしは10行くらいで終わらせるはずだった。おかしい)。写真と視覚は異なる存在である。写真を専門にしている人からすると当たり前のことなのだろうけど、これはぼくが実際に写真を取り始めて、すごく驚いたことだった。写真はてっきり、肉体のもつ視覚に従属するものだと思っていた。そしてもう一つ感じたことは、ぼくたちは写真(=自身の視覚では不可能な世界の認識のバリエーション)を経験することを通して、あたかもリーバスエンジニアリングのようなかたちで世界を再構築することができるし、“カメラの目”のフィードバックによって、“人の目”はつねに別の仕方での世界の見方を獲得し、これまでとは別の器官へとバージョンアップされている、ということだった。すくなくともぼくは、カメラという第三者の力を借りて、自分の目をそれまでとは別のモノへと生成変化させるために、そして別物の目によって新しい写真のイメージを獲得するために、あるいはその、機械と肉体の無限のフィードバックループのために、写真をとっているような気がする。フィルム写真という不便で時代遅れなフォーマットが面白いと感じてしまうのも、多分このためだと思う。

●制作しているのは写真ではなく、実は、“目”のほうである。あるいは、ぼくの写真をみた他人の“目”も、つゆ知らずに制作しているかもしれない。必要なのは写真そのものの制作論ではなく、“目”をいかに制作していくのかという方法論である。