160424 人類学者のスケール論③

o-tkhr.hatenablog.com
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『部分的つながり』のつづき。

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この図は「カントールの塵」と呼ばれるもので、『フラクタルの1種で、閉区間 [0, 1] に属する実数のうち、その三進展開のどの桁にも 1 が含まれないような表示ができるもの全体からなる集合である。』(wikipediaより)と定義されるものらしいのだけど、要は一線分を三等分し、その中央の1/3を取り除く、という過程を再帰的に繰り返すことで得られる"塵"の集合のことだ。マリリン・ストラザーンの「部分的つながり」では、この有名なフラクタル図がかなり重要な概念として、あるいは形式(フォーム)として通底に置かれ、アナロジカルに参照されることとなる。さらに本書の構成自体が、序文から2つの大きなセクションへ、それぞれのセクションはさらに細かい2つのサブセクションへ…と分化していき、それらを部分として併置させる(ここが"空白を含む"というこのフラクタル図の重要な点)という、この形式そのものに沿っているものだから、著者の徹底ぶりが伺える。

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さて、ストラザーンの記述をみていこう。

私たちは、不規則さの量を細部の量と考えるだろう。そうすることは、先ほど観察した現象を思い出させる。細部を見ようと倍率を上げても、彼/女が観察していることから人類学者が引き出せる情報の量は変わらない。つまり、観察行為が、形式の増殖の恒常的な背景でありつづけているのだ。(p.36)

地域全体を扱うときでも小さな集団を扱うときでも、相関する諸変数についての複雑なモデルを用いるときでも単一の事象の展開を分析するときでも、これら複数のスケールを横断する単純にして不変なものがある。それは、差異化するするという当の能力である。類似性と差異の知覚の強度は、スケールがなんであれ、人類学的な説明の等しく重要な部分である。それはまた、[研究対象となる]行為者たちの志向においても同じように重要な役割を果たすように思われる。
 結局のところ、差異化は抑制されることなく蔓延ることになる。(pp.37-38)

人類学者が研究対象にさし向ける問いと、それに対する答えの組み合わせを考えてみよう。そこに終わりがないことは私たちが良く知るところである。答えが新しい資料や洞察を生みだすのならば、それは問いを発する者が未だ手にしていない知識に依拠していることになる。(……)
 それぞれの局面で答えが要求するよりも多くの何かが生み出されるならば、そのより多い何かはある種の「残余(リメインダ)」、残された資料として作用する。その残余は当初の問いに対する答えに収まらずに、更なる答えを要求する更なる問いを発することで、当初のポジション(問いと答えのセット)を包み込み、あるいは下位分割するにことになる。あるいは、こう言ってよければ、残余は私たちの理解に新しい裂け目(ギャップ)を生み出すのである。(pp.38-39)

と、これは前回確認したように「複雑さ(情報量)が無限に増大していく」ということに関する問題意識にほかならない。こうした問題に対するストラザーンの挑戦が、「カントールの塵」にみられるようなフラクタルな構造を、本書の構造とすることであった。すなわち、「どんな分析や記述も、完結しきることはできない」ということをはじめから想定し、むしろ「カントールの塵」をモデルにした極めて形式的な分断のリズムを導入することで、意識的に各パラグラフの「サイズ」を固定し、さらにパラグラフ間の「部分的なつながり」を前景化すること、である。

そのためにとった戦略は、情報や議論の流れを止める、つまり「切断する(カットする)」ことだった。これから続くテクストのセクション毎の区切りは、切断であり脱落である。[切断の]両側に類似のテーマを見つけることができるが、互いに加算されることはない。筆者にとってカントールの塵は、それぞれのセクション(あるいは二つのセクションからなる一組や、本の半分)の分量を一定のサイズにするための人工的な装置だった。足し算も引き算も、複雑さを減少させることはない。サイズは文字の数ではなく、知覚の効果に他ならないのである。筆者が望んでいたのは、結果的にメラネシアについて比較している部分が理論についての部分と同じくらい「大きく」、また逆もそうであるようにすることだった。この技巧の採用は、私たちが意識していないときに実際には何をしているのかを目に見えるようにするためのものだったのである。(p.53)

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本書でのストラザーンの試みは、人類学における分析の方法を更新するだけにとどまらず、現代に生きるあらゆる人々のにとって有益なものではないかと感じる。というのも僕らは、常に過剰な情報の嵐のなかで、「以前あった何か」にカテゴライズされながら生きているのだから。インターネット上にあふれる無限にも近しい情報をうけとめるには、人間の身体はあまりにも有限である。だからこそ、ストラザーンのように、ある種の「切断」を能動的におこない、あえて強烈な形式を事前にもうけることで、議論を認識可能なフレームのなかに納め、そして議論の裂け目(ギャップ)それ自体に対しても積極的に思考をおこなっていくような態度が有効ではないかと感じている。この問題は、いわゆる「無限後退」と呼ばれる問題とも接続する(無限後退 - Wikipedia)と思う。これは、あまりにも簡単に情報が手に入ってしまう僕らにとって、とても切実な問題だ。

最後に、ストラザーンが本書を書き上げる上で大きな参照元になったというダナ・ハラウェイについて彼女が語っているところを少し引用しよう。大変興味深い箇所である。

例えば、分析のポジションを変化させることで、失われたり隠れたりするものは何なのか。これらすべては検討に値すると強く感じられるひとつの論点、つまりスケールをめぐる問いに行き着くように思われた。アナロジーについての判断だけではなく、釣り合いについての判断もまた、データの組織化がどのようにおこなわれるかを左右する。そしてこれが「部分的な」つながりを思考可能にするサイボーグの言語をダナ・ハラウェイが導入した契機だった(部分的であることは、[全体の一部としてではなく、何かとの]つながりとしてのみ作用する。部分はそれ自体でひとつの全体であるからだ。……)。ハラウェイのセミ・マシーンは、コラージュ、モンタージュ、断片化をめぐる当時のあらゆる議論、言語に絶する多様性の再発見といったありきたりな語よりも、ずっと筆者の役にたつものだった。加えて、彼女は引き算が足し算と同じ効果をもつレイヤー化に関心をもっており、それは[パースペクティブの]移動を可能にするものだった。彼女のヴィジョンは、私が部分化可能性(パーティビリティ)と呼んでいたものにとても近かった。部分化可能性とは、人格の断片化やそれに伴う他者を通じた再帰的な自己認識のことではなく、全体の半分をペアの片割れにする社会的な論理のことである。全体の喪失を思わせるような不意の予期せぬ(それゆえ痛ましく哀れな)分断ではなく、「サイズ」の意図的な割り当てによって、筆者は実験をしてみたかったのである。

本書の具体的な内容に関する考察は、また別の機会に譲るとしよう。