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160324 人類学者のスケール論②

人類学は、20世紀後半にはすでに、多元的な世界についての見方からポスト多元的と呼べるような見方へと移行している。私の説明もこの意向に倣ったものである。無数のパースペクティヴが生み出す増殖効果への気づきは、置換効果への気づきへと至り、そこではいかなるパースペクティヴも想定とは異なり、(加算することで辿り着けるような)全体的な眺望を提供することはできないことが感知される。ポスト多元主義の人類学は遠近法的であることをやめているのである。(pp.26-27)

西洋の多元主義(プルーラリズム)、あるいは遠近法的世界観(パースペクティヴァリズム)への批判は、「部分的つながり」における通奏低音だといえる。多元主義/遠近法に基づく世界では、複数の視点を加算していくことである全体を獲得できるということが想定されている。ストラザーンのいう「複雑さの増大可能性」は、この想定に無理があるということを、わかりやすく示してくれる。

「千葉の地理情報」を再び例に出そう。千葉県のある部分の詳細を拡大して眺めたとき、僕らは「千葉の地理情報」における詳細情報を手に入れることとなる。あるいは千葉県を一歩引いて眺めたときもまた、「千葉の地理情報」における新たな情報を手に入れることとなる。パースペクティブを切り替えるたびに、僕らは事象に関する新たな情報を手に入れてしまう。「千葉の地理情報」のもつ複雑さ(情報量)は、スケール操作のたびに増大してしまう。どこまで詳細に、あるいは広域に観察すれば、「充分」なんだろうか。いや、どこまでいっても「充分」とはいえないような気がする。

これが「複雑さの増大可能性」がもたらす問題だ。ポジションを変更するたび、僕らは事象に関する異なる複雑さを認識してしまう。言い方を変えれば、ポジションの変更それ自体が、事象の複雑さを発生させている。異なるスケールを自由に跳躍できることが近代主義の大いなる成果であったということは、すでに書いた。でもこの成果のおかげで、僕らはある事象における複雑さ(情報量)が無限に存在している、という問題に直面し、参ってしまうこととなる。

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重要度の高い情報が中心にあって、そこそこ重要な情報がその近くにあり、中心から離れるほどあまり重要でない情報が現れる。従来はこのようなツリー状の構造により、無限に広がる情報を体系化し、組織化していた。情報の序列化である。このとき、中心にいけばいくほど抽象度のレベルも上がっていく。つまり中心にあるのはモデル・類型であり、周辺にあるのはより具体的な情報で、この場合、中心(モデル・類型)が特定できれば、たとえ周縁の具体的情報が無限に存在していたとしてもあまり問題にならない。中心の重要かつ抽象度の高い情報が把握できていて、そのまわりのデータがある程度そろっていれば、もうその現象に関しては「充分わかった」ということとなる。これが、従来の多元主義・遠近法的世界における「複雑さの無限発生問題」への対処方法である。言い方を変えれば、ある現象を切り取って組織化しようとしたとき、中心を伴ったツリー状の構造、あるいは初発の原理に基づいた系譜的な構造をベースにせざるを得ない、ということになろう。

しかしここには2点問題がある。まず、このような対処方法を前提としたとき、僕らは全く中心が存在しないような現象を、論理的にはとらえられないことになってしまう、という問題。この問題は人類学者が実際に直面していて、近年のメラネシアにおける研究がその一例であるらしい。(実際にこのような“不釣り合い”に直面したからこそ、ストラザーンの問題提起が生まれたのだろう)。分析している文化や社会における価値や特徴に中心性がなく、ランダムであるとき、僕らはなすすべがない。もう一つは、「同じ価値や特徴が多様な文化や社会のまったく異なるレベルで現れてくる」という問題。ある地域の文化や現象を体系化しようとしたとき、僕らは特定のパースペクティブ(つまり特定のスケール)から導き出される情報を中心に据えることで、その地域・現象の特異性を記述することができる。例えばある地域を部族を分析し、そこで氏族集団間における財産の交換に特徴的なモデルを発見したとしよう。データをツリー状に組織化するという前提を踏まえると、異なるスケールから得られる情報はあくまでそのモデルを補足し、付随するものでなければならないはずだ。しかしこの時、個人間での財産取引においてモデルと同一のパターンやデータが反復するという事態がありうるらしい。というか、近年の人類学においてそれは「よくあること」だから、非常に困ってしまっている、ということなのだろう。部族間と個人間という、異なるスケールのパースペクティヴに、同一のパターンが発生してしまう。この場合、その地域の部族に関する情報を組織化しする際に中心に来るはずだった財産交換におけるモデルが、中心として相応しくない=不釣り合いだ、ということになってしまう。

いずれの場合においても、僕らはこのような問題に直面したとき、現象を組織化できない(ツリー状の構造が維持できない)ということになる。現象を組織化できなければ、僕らは「複雑さの無限発生問題」を回避できなくなる。断片的・部分的情報でしかその現象を認知できず、「客観的な理解と定義」が不可能なように思えてしまい、しいては「とらえどころがないなあ」と嘆くしかなくなってしまうのだ。

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言わずもがな、いま僕らが直面している「限界=有限性」は、多元的な世界についての見方に基づいている。「複数の視点を加算していくことである全体を獲得できるという想定」の限界である。多元的な世界、それはつまり遠近法的な世界であり、モダニズム的な世界であって、ここではそれらの有限性が明確な問題として浮かび上がっている。ストラザーンは「フラクタル」を参照することでこの有限性を鮮やかに乗り越えて見せるのだけど、それについてはまた次回。

そういえばこの問題、いわゆる「無限後退」と呼ばれる問題と、ほぼ同じ内容を扱っているように思う。「無限後退」を乗り越えるためには、「複数の有限性」に着目するしかないなぁなんて漠然と考えていたけど、これについても後日、ストラザーンを引き受けたうえでしっかり書きたいと思う。何しろこれは、あまりにも簡単に情報が手に入ってしまう僕らにとって、とても切実な問題だから。