160323 人類学者のスケール論①

※noteの方でまとめました(2018.6.18)

https://note.mu/tkhrohmr/n/n6d373bb5d715

https://note.mu/tkhrohmr/n/nd99aae0c42a1

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現在僕は、所属している研究室で長年行われてきた「スケール(尺度)」についての研究をまとめ、8月を目処に出版することを目指して作業している(→結局発売は1年半ほど延びました、、。APR.6,2018_図4 建築のスケール - 声にだして読みたくなるブログ)。そういうこともあって、マリリン・ストラザーンの「部分的つながり」(水声社)の冒頭で展開される「スケール」についての記述は非常に刺激的だった。本書に度々登場する「スケール(尺度)」や「プロポーション(釣り合い)」、「パースペクティブ」といった言葉は、建築畑の僕らにとってはとても馴染み深いものだ。しかし僕らがある種、反射的・制度的に捉えてしまうそれらの用語の定義と、人類学者によるそれは微妙に異なっていて、これは大変示唆に富む部分だった。まだこの本を最後まで読んでいるわけでもないので多少フライング気味だけど、ストラザーンの「スケール」について、一度まとめておこうと思う。

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スケールを変化させるという言葉で、私は、人類学者が資料を組織化するときに決まってする、現象に対するひとつのパースペクティヴからから他のパースペクティヴへの切り替えを指している。このパースペクティヴの切り替えが可能なのは、世界が本来的に複数の存在ーー多様な個体や集合や関係性ーーから構成されているという自然観があるからである。そして、それら構成要素の特徴は分析の枠組みに基づいて常に部分的にしか記述できないとされている。 (p.22)

 人類学者の仕事の多くは、対象に関する膨大な情報をいかにして組織化していくか、ということに費やされる。観察者がどのように資料を照らし合わせ体系化するのか、ということに注目したときに「スケール」が問題となるのだけど、これは人類学者固有の振る舞いとかいうわけではなくて、僕らが物事に関してある観察を行うときに普通に行っていることだ。例えば「千葉の地理情報」ついて調べようとしたとき、僕らは日本の中で千葉がどの辺に位置しているのかという問題と、千葉のなかにはどのような市町村が存在していて、それらはどういった位置関係にあるのかという問題、あるいは東京から館林までの距離といった問題など、異なる視点(パースペクティヴ)から「千葉の地理情報」を調べるということを、ごくごく自然に行う。異なる視点から得られる断片的な情報をつなぎあわせて「千葉の地理情報」という全体を獲得しようとする。このような、ある物事を観察し分析するときにおこなう、レンズの倍率を変化させるようなスケールを行き来、パースペクティヴの切り替えこそが、人類学が問題とする「スケール」ということになる。このようなスケール(尺度)・パースペクティヴ(視点)を自由にスイッチするスキルは、西洋の多元主義(モダニズム、といってもいいはずだ)が手に入れた重要な成果であることは言うに及ばない。この「知の対象や、探求の対象へのパースペクティヴの組織化」を「スケール」と表現するのはストラザーン独自のものだと思うけど、かなりしっくりくるなという感じがする。本書全般から感じることだけど、彼女は物事をすごく空間的にとらえているように思う。というか、空間的なセンスが凄くある人なんだろうな。

ストラザーンはこの「スケール」について2つの水準があることを指摘している。ひとつは「規模の設定(マグニフィケイション)」で、もうひとつは「領域の設定(ドメイニング)」だ。「規模の設定」は単純で、視野の大きさを変化させること、つまり僕たちが1/100の図面と1/1000の図面を行き来するような、比較・検討の際のスケールの規模の切り替えを指している。「千葉の地理情報」を分析する際に、世界地図なのか、あるいは日本地図なのか、はたまた住宅地図なのか、どの縮尺の地図で分析するかがここでの問題になる。一方「領域の設定」では、「千葉の地理情報」を「距離」の問題として分析するのか(さらにそれが時間的な距離なのか空間的な距離なのか)、あるいは歴史的・政治的な地域区分として問題とするのか、片や経済と再生産の問題からあつかうのか、が問題となる。つまり対象の分野的・領域的な差異がここでの論点となる。この2つが、僕らが事物に対してポジションをとるしかたのうちの、基本的な性質といえる。

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さて、この「スケール」あるいは「スケールを行き来するスキル」というのはあくまで手法であり、さらに近代以降の世界に生きる僕らが普段当たり前に行っていることで、通常人類学の世界では表沙汰にならないはずの問題だ。それよりも、この近代的なスキルを用いて組織化された民族誌的な記述を、いかにして比較・検討・解釈・分析し、その結果何が明らかになったのかが、人類学における主要な内容(コンテンツ)となるはずである。しかしストラザーンは明らかに、コンテンツではなく手法を問題にしようとしている。その必要があったのは、多分彼女の実感として、既存の人類学(=従来の多元主義、遠近法的世界観、広い意味での近代主義)に限界がきていたから、なんだと思う。

→つづき

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