DEC.16,2019_最近の音楽①

 半年に一回くらいやってる最近聴いてる音楽の報告回。1回でまとめようと思ったのだけど、予想以上の分量になっちゃったので明日と今日でわけます。

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○ Kurt Rosenwinkel Bandit 65 / Searching The Continuum

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Kurt Rosenwinkel: g, voice, electronics, Tim Motzer: g, guitar synth, electronics, Gintas Janusonis: ds, percussion, electronics / Heartcore Records / 2019

 10月に出たカート・ローゼンウィンケルの新譜。カートファンにはおなじみ?のティム・モッツァー、ギンタス・ジャヌソニスとのグループ「Bandit 65」での演奏がまとめられ、カート自身のレーベルである「Heartcore Records 」からリリースされた。Bandit 65は完全即興をコンセプトとするバンドで、収録曲の7曲は各々別の地域でのライブ録音(ストックホルム・マドリッド・フィラデルフィア×2・ウィーン・ベルリン・ロサンゼルス)に事後的に曲名がつけられたものだ*1。ティム・モッツァーは90年代の音響派以降のギタリストというか、アンビエント・エレクトロニカ系のプレーヤーという感じで、ものすごくざっくりいうとモッツァーが空間全体の音作りを担当して、カートはどちらかというとワントーンで弾いてる感じ。ビル・フリゼールとパット・メセニーが共演した『The Sound Of Summer Running』(Marc Johnson, 1997)という超名盤があるけれど、ここでのフリゼールとメセニーの音の絡み方をなんとなく想像してもらえればいいと思う。この3人の共演期間はかなり長いように思う。定期的にライブ活動していたよね。だからようやくひとつのパッケージとして聴けるなぁという感じ。

youtu.be ライブ映像を聴いている限りではちょっととっつきにくい感じがするんだけど、アルバム収録曲はさすがにかなり厳選されていて、そうとう聴きやすく編集されている。曲の長さもフェードアウトでうまく区切ったりしつつだいだい7-10分くらいでまとめられている。内容はどうかというと、めちゃくちゃいいです。とくに5曲目の「At the Gates」という曲のカートのソロは、個人的にはこれまでのカートの演奏のなかでもベスト級だと思った。おおげさではなく。ニューヨークからヨーロッパに活動の拠点を移してからの10年間のカート・ローゼンウィンケルがすべてここに詰まっているような気がした。『CAIPI』(2017)も『Star of Jupiter』(2012)も個人的には全然納得いっていなかったけれど、ようやく『The Remedy』(2008)クラスのすごいのが来たなという感じ。

 この10年で、カートが奏でるギターの音からはだんだんとピッキングのニュアンスが消え、逆にヴォイスの音量が上がってきてきた。ヴォイスというのはジャズ・ミュージシャンがよくやる(キース・ジャレット的な)「ついつい声がでちゃう」というものではなく、カートの場合はマイクまで付けちゃうので、そしておそらくそこにエフェクトもかけているので、あきらかにインプロビゼーションの重要な構成要素のひとつとして扱われていると思う。ギターという楽器と喉という楽器を両方同時に扱っている、というイメージ。そもそも「歌う」という行為は、ものすごく原理的な、人間の根源的な即興のあり方だけれど、カートが“歌う”メロディはあきらかに人間の喉という器官からは発想できないような(ヴォーカリストのスキャットでは絶対に発せられないような)複雑なフレーズだ。ぼくが思うに、だけれども、カートは人間の喉という楽器を使っていては絶対に生まれないフレーズを「歌う」ためにギターという不自由な楽器をわざわざ使っているのではないか。カートがピアノを使わずギターに固執するのは、彼が本質的にヴォーカリストだから、ではないか。ギターはある意味では「制限」であり、でもこの制限があるからこそ、ある独特のハーモニーやリズム、音の連なりが構築できる。カートの演奏を聴いていると、まだ人類が誰一人として歌ったことのないメロディを歌うために、ギターという楽器がひとつのプロセスとして絶対に必要なんじゃないか、と思えるのだ。カートとギターの関係はすごくサイボーグ的というか、サイバネティクス的で、人間と機械が結合してひとつの別の生命体を作っているような感じがする。だからぼくは彼の演奏を聴いていて、人間と機械がハイブリッドした別の生命体のスキャットを聴いているような気にさえなるのだ。

 対してモッツァーのギターの音はちゃんとギターの音している。徹底して機械の音。パキッとしているというか、カリっとしているというか。だからこそ極めて生物的なカートの演奏とは決して衝突せず、うまく共存する(そういう意味でフリゼールとメセニーの関係に似ているなとぼくは思った)。彼は展開のアイデア・音色・リズムの作り方、らの引き出しが非常に多い。足元に置いているエフェクターも複雑すぎてもはやまったく解読不可能。E-BOW(小山田圭吾がよく使うあれ)とかも使っちゃうしね。加えて、カートとモッツァーのあの手この手のやりとりに完璧に反応するドラムのギンタス・ジャヌソニスもすばらしい。彼はスタジオミュージシャンとしてジャズだけではなくありとあらゆるジャンルを音楽をやってきた人なので(それこそエミネムともやるしサンタナともやるし宇多田ヒカルともやるしみたいな)、何が出るかわからないこの二人の演奏を支えるのに適役だなと思った。完全即興というとフリージャズっぽくなりそうなんだけど、この3人のやりとりはフレーズのやりとりではなく「音色」のやりとりや空間への音の配置がまず先にあって、そこから曲の構造や進行が事後的に生じてくる感じで、そこもすごい共感した。決して進行感がないわけではなくて、むしろときにはかなりポップなコード進行やハーモニーが現われたりもする。ぼくがアンビエントとかを好んできくというのもあるんだろうけれど、なるほどこういう仕方でインプロビゼーションができるんだな、と感動した。音楽の新しい形式の発明、というところまで到達していると思う。

 リトル・サンダーってピックアップがあって、カートのギターにはおそらくこれが実装されているんだけど、これが何かというと、5、6弦の音だけを個別に拾って1オクターブ下げた音にできるって代物なんだよね。和音をひいても5、6弦だけはベース音になる、というめちゃくちゃすごいオーパーツみたいなピックアップ。ギラッド・ヘクセルマンも同じようなことをするけれど、音色的に、彼はたぶんBossのOC-3というエフェクターを使っている。OC-3は特定の音域が指定できて、その部分の音を1オクターブ下げる。対してリトル・サンダーは弦自体を分別してくれてオクターブを増減できる。いずれにせよ、この技術があるおかげでギタリストの活躍の幅がそうとうに広がっている気がする。それはともかくとして、ヴォーカリストとしてのカートの本性がいかんなく発揮された今作、気になった人はぜひ聴いてみてください。できれば各曲のフルバージョンが聴いてみたいところだけど。

 

○ Brad Mehldau / Finding Gabriel

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△ Brad Mehldau: OB-6 Polyphonic syn, Therevox, Moog Little Phatty, p, vo, ds, el-p, Musser Ampli-Celeste, Morfbeats gamelan strips, Therevox, xylophone, Mellotron, org, shaker, handclaps, Mark Guiliana: ds, el-ds(1, 3, 5-9) / Becca Stevens: vo(1, 3, 5, 7, 8), Gabriel Kahane : vo(1, 3, 5, 8), Ambrose Akinmusire: tp(1, 6), Michael Thomas: fl,as (1, 6), Charles Pillow: ss,as,b-cl(1, 6), Joel Frahm: ts(1, 6), Chris Cheek: ts,bs(1, 6), Sara Caswell: vln(5, 8), Lois Martin: vla(5, 8), Noah Hoffeld: cello (5, 8), Kurt Elling : vo(7, 9), "Snorts" Malibu: vo(9), Aaron Nevezie: Korg Kaoss Pad(9) / Nonesuch Records / 2019

 5月に出たブラッド・メルドーの新譜もすばらしいものだった。乱暴にいえば現代ジャズはカートとメルドーさえ追っておけばいい、というくらい重要なこの二人の新譜がどっちも最高に良かったということが、2019年の大きな収穫でしょう(「ジャズ」というジャンルで彼らの音楽をくくるのはバカらしいのだけど、便宜的に)

 メルドーの『Finding Gabriel』は見れば分かる通り、参加ミュージシャンが非常に多い。多いだけではなく、アキンムシーレ、ジョエル・フラーム、クリス・チーク、ベッカ・スティーヴンス、ガブリエル・カハネ*2、カート・エリング……、と、サポートメンバーが超豪華というのもあって最初はなんじゃこらと思うのだけど、もちろん全曲このメンバーが参加しているわけではない。基本的に本作はメルドーとドラムのマーク・ジュリアナの共同プロジェクトとして2014年に発表された『Mehliana: Taming the Dragon』を発展させた音楽だと考えてよくって、メルドーのソロ曲である2・4・10曲目を除いたすべての曲にジュリアナが参加し、バッキバキでキレッキレのドラミングを披露している。全体を概観すると、メルドーとジュリアナの二人をベースに、管楽器隊が1・6曲目に、弦楽器隊が5・8曲目に参加し、ヴォーカリストが各曲にバランスよく配置される、という構造。前述したように2・4・10曲はメルドーのソロ曲なのけど、メルドーが異常な数の楽器と自身の声を駆使し多重録音しているのでしっかりとしたバンドサウンドになっている。ソロ曲のみならず、全曲に多重録音が駆使されていて、おそらくかなり長い制作期間とられたのではないかと想像する。ライブでの完全即興を録音したカートの『Searching The Continuum』とは対比的だなと思う。しかし対比的なのはスタジオでの多重録音とライブでの即興演奏という違いだけではなく、楽曲に込められた政治的メッセージという点でも、である。

youtu.be

 『Finding Gabriel』に関しては、アメリカの(というか全世界同時多発的と言ってもいいのかもしれないけれど)政治的な文脈と切って論じることはまず不可能だろう。ポストトゥルースの時代で、どういうスタンスでで音楽を制作すべきかという問いに対して、真正面から直球で応答するという道を選んだのが本作である(もちろんメルドーは政治的態度が前面に出てこない演奏も並行しておこなっているわけだけれどね)。それはとくに下の「The Prophet is A Fool」 (アルバム6曲目)のMVを見ればあきらかで、これは端的にドナルド・トランプに対する、あるいはトランプ的な憎悪の助長と分断の強化に対する、明確な批判だ。あまりにも悲痛なというか、痛みや怒りがそのまま凝縮して結晶化したような曲。ピアニストとしてはもう奇跡的な技術をもっていて、確実に歴史に名を残すミュージシャンであるブラッド・メルドーがここまでの(あからさまな)音楽を発表せざるとをえないということの状況のすさまじさを咀嚼するのに、個人的には時間がかかってしまった。で、これちょっと日本では考えられないことだな、とか思っていたら、その後あいちトリエンナーレの問題なんかが日本でもあって……、あの問題が全面化するたびに(比較していいものかはわからないけれど)、ぼくはこの曲のことを思い出していた。

youtu.be 偏見かもしれないけれど、とくに日本のジャズ・リスナーはこういう政治的な問題がちょっと苦手なイメージで、ネットのレビューなんかを見ていても本作はかなり表層的な(まぁそれでもいいんだけれども)受容しかされていないという印象があった。音楽からそういう政治的な意図を汲み取ることが苦手、もしくは忌避感がある人がインストゥルメンタルを聴きがち、ということはあるよね。音楽にその部分での葛藤を求めていないというか、そういうままならない現実をいっとき忘れるために和音やリズムの戯れを楽しみにしている人が多いというか。そういう人間からすると本作は「音楽に政治を持ち込むな!!」という批判の対象になるだろうと思う。かくいうぼくもそういう人間なんだけれども、しかし本作に関してはさすがにそんない甘っちょろいこといってらんないんじゃないかと思えた。四の五の言わず、まずは本作に合わせて発表された下のメルドーのテキスト、というか宣言文だと思うけれど、これを読むべきだろうと思う。

www.bradmehldau.com ブラッド・メルドーという人は極めて知的な人で(演奏聴けばあきらかですが)、文章仕事もとてもいい(そしてコメントへの返信も長文で丁寧ですごい……)。ここでもアメリカ国内での人種差別的な意識(あるいは恐れ?)がベースになった数々の悲劇が引き合いに出されつつ、非常に説得力のあるテキストが書かれている。ぼくはアメリカ国内の問題に詳しいわけではないし、本作のモチーフになっている聖書に詳しいわけでもなく、肌感覚として彼の言っていること・表現していることのすべてに共感できるわけではないけれど、それでもなにか理解しなくてはいけない現実が、あるいはそうした現実への彼の怒りがここにはあるぞ、ということはわかる。ぼくの拙い訳だけれど、一部を引用してみよう。

国家に何かを訴えるのでもなく、個としての決断を果たすわけでもなく、社会の政治的枠組みを機能させている他者の苦しみと個人の責任のその両方を無視するとき、あなたは真の全体主義──そこでは個人にいかなる発言権も権力もない──と戯れることになる。 小説や政治批評、聖書といった力強い文学を通し、私は他者の苦しみについて知った。そして、アフリカ系アメリカ人が私に音楽を与えてくれたように、ミュージシャンはつねに私を導く光だった。彼/彼女らは英雄的に自らの苦しみを乗り越え、美しく永続的なものを残した。その克服は個人的な達成だったけれども、しかしそれは政治的な業績でもあったのである。偉大な音楽や芸術の政治的な改革の力は、個々人の抗議にとどまるものではない。それらはある勝利を収めている。私の音楽的英雄たちの創造的な勝利は、つまるところ、社会全体を高める政治的な勝利でもあった。音楽と芸術は“いつだって”政治的なのだ。 私は「芸術のための芸術」をつくりたいとは思わない。二度の世界大戦とホロコーストの後、それを信じていた芸術家はいなかった。(……)すべてのアーティストは“自らの芸術が重要なものであること”を望んでいる。彼/彼女らがどれだけ自己防衛的な姿勢をとっていても、だ。「芸術のための芸術」は決して私たちが切望するものではない。「私の芸術が、私が望むような仕方で今回の政治的変化に影響を与えることはなかった」とか、もっと厄介なことに、「今から振り返ってみると、あの芸術は間違った種類の政治的変化のために使われた」などと言うことは、芸術の限界を正直に認めることにただ身を任せることに他ならない。私たちは芸術における希望を決して捨てないし、民主的な対話の希望も、決して捨てない。いまも挑み続けている。

Note from Brad – "The Prophet is A Fool" May 30, 2019

 ひとつはっきりさせておいておかなければいけないのは、とりわけアフリカ系アメリカ人によるジャズの演奏というのはその出自からして、そもそも人種差別に対する抵抗的な表現だったということだ。ビリー・ホリディにしろ、チャーリー・パーカーにしろ、チャールズ・ミンガスにしろ。彼/彼女らの演奏は全身を使った、命がけの、抑圧への抵抗だった。だからこそぼくらは胸を打たれるのだ。もうひとつ明らかなことがある。それは、メルドーがトランプ的な人種差別や銃による暴力(の扇動)に激怒しつつも、その状況をたんに皮肉るのではなくて、そこからどうやって立ち直っていくのか、希望のほうへ行くのか、ということを愚直に考えているということだ。ほとんど絶望的な状況を告発するような6曲目の「The Prophet is A Fool」のあと、7曲目はメルドーの「ふぅ〜〜……」というため息と「Make It All Go Away」というつぶやきから始まる。ともかく前へ進もう、なんとかしよう、と。ちょっとこそばゆくなるくらいベタな展開だけれども、ぼくはメルドーという人がほんとうに真面目な人なんだなと、ちょっと不器用だけれどまっすぐ紳士にそういった現実の問題に取り組もうとしている人なんだなということがわかり、とてもうれしくなった。

 こうしたメルドーの姿勢は、サクッとアメリカを脱出してベルリンに拠点を移したカートがライブでの完全即興演奏をアルバムとしてリリースする姿と、かなり対比的に思えるだろう*3 。アメリカに残り続け、愚直にも政治的メッセージ前回の楽曲を全力で制作しちゃうメルドー。対して政治的なTweetはめっちゃするけれど、そこと音楽を直接接続しようとはしないカート。建築でいえば、ナチスが政権を獲得してからサクッとアメリカに亡命したミース・ファン・デル・ローエと愚直にドイツに残り続けたハンス・シャロウンの関係に似ているかもしれない。皮肉にも、ベルリン→アメリカという矢印は反転して、いまやアメリカ→ベルリンという亡命の図式になってしまったけれど。 

 もちろんぼくは、カートを非難したいわけでは全然ない。第二次大戦中のドイツ占領下のパリで妻と娘が反ナチ運動に身を投じ安否もわからないなか、ひとりアトリエにこもって美しい女性を描いていたマティスを、ぼくは心から尊敬している。自分はただひたすら良い絵を描くことでしか、戦争や抑圧や暴力や破壊といった最悪の状況に対抗することはできないと、彼は考えたんじゃないだろうか。そもそも、カートの『Searching The Continuum』に政治的なメッセージがまったくゼロであるとは、ぼくは思わない。メルドーが明言するように「Music and art are always political」なのであり、カートの歌詞のない「唄」からは政治や倫理、戦争や自由、表現のあり方、といったものに関するメッセージをいかようにも、事後的に、汲み取ることができるだろう。メルドーの場合はただ、そうした「怒り」をわかりやすく戯画化せざるをえない、というさしせまった状況に立たされているというだけのことだ*4

 どちらも、ぼくにとって大変に尊い。

 

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*1:もしかしたら演奏直前に3人の共有認識というか共有のイメージとしてつけられた曲名なのかもしれない。ただのぼくの予想なので注意。

*2:シンガーソングライターであるカハネの『Book of Travelers』(2018)というアルバム、めちゃくちゃいいすよ

*3:実際、同時多発テロ以降にアメリカの政治的環境に嫌気がさしてのベルリン移住だったみたいだけど。

*4:この「戯画化しなきゃ伝わらない!」みたいなことは映画の「ジョーカー」でも感じた。今のアメリカの、一種の病理なのかもしれない。