170615_牯嶺街少年殺人事件

●ぼくの最も好きな映画は、エドワード・ヤンの「ヤンヤン夏の想い出」だ。エドワード・ヤンの映画はそれくらい好きなのだけど、彼の代表作である「牯嶺街少年殺人事件」は見たことがなかったので、今回デジタルリマスター版を柏で見ることができたのはとてもラッキーだった。

●「牯嶺街少年殺人事件」は、感想を書くのがとても難しいのだけど、とてもよかった。この映画はストーリーがどうとかよりは、細部が重要な映画だ。とはいえ4時間もあって、魅力的な細部が潤沢に盛り込まれているから、それを一言でまとめることはなかなかできない。でも、映画の構成としておもしろいなと思ったのは、この映画は「因果律」みたいなものに基づいて進むわけではないことだ。「少年の殺人事件」を描いた映画となると、普通は何か原因があって、こういう理由で少年は殺人を犯したと、わかりやすくそういう仕方で映画を構成すると思う。でも、エドワード・ヤンはそうしない。それは、現実におこる事件や出来事が、必ずしも因果律に基づいて起こっているわけではないからだ。結果には、必ずしも明確な原因があるわけではなく、実際にぼくたちも、最近身の回りで起こったことの原因を述べよといわれても、なかなか難しい。でも、この映画をみると、少年が殺人を犯してしまったのは「必然」であったと感じる。原因が明確に描かれていないのにそう感じるのはなぜか。それは、主人公と登場人物たちが生きていた世界、60年代の台湾の世界が、まるまるその環境ごと、蒸し暑い熱帯の空気ごと、描かれているからである。環境をまるまる見せられるような雰囲気がこの映画にはある。それこそとりとめもないエピソードや、当時の空気感も含めて。エドワード・ヤンの描く群像劇はいつもそうだ。並列する世界、あるいは登場人物たちの環境や出来事に、必ずしも強い関係性があるわけではなく、すれ違いながら、弱く関係している感じ。あるいは、「ねじれの位置」にありながら、同時存在している感じ。群像劇というよりは、準-群像劇。それによって彼の映画はとても多角的というか、複数の視点から世界を眺めるようにできているところがあって、とても現代的だと思う。同時にそれによって、「作者の操作」や「物語への介入」みたいなものが、極限までにカットされている。

●この映画では、主人公が生きる台湾の環境や、そこでの出来事を、すごくドライな視点から見せられることとなる。カメラの位置とかも、傍観者的というか、一歩引いた視点に置かれていたような気がする。「覗き見」している感じ、といえばわかりやすいだろうか。なんてことない日常風景も、刀で人がバサバサ斬り殺されていくシーンも、主人公とヒロインの甘酸っぱいシーンも、すべて等価に、ドライな視点から描かれる。それでいてどのシーンも情緒的というか、美しい。カット割りや画面のコンポジションも完璧。日常的な描写をドライでフラットな視点から撮るとなると、翻ってカット割りのリズムとか画面構成の美しさとか、映画的な快楽を生むレトリックが問われる気がする(それがないと見てらんない)。ぼくがとくに好きだったのは、吹奏楽団が練習しているところを横切りながら主人公とヒロインがやり取りするシーン。暗闇のなかでの殺陣シーン。ほこりっぽい体育館の空間描写。小四が懐中電灯をスタジオに忘れていってしまうシーン。

●映画のクライマックスで、小四は自分でもわけがわからないまま、小明を刺してしまう(すいませんネタバレします)。ぼくは、というかほとんどの観客は、その「わからない」ということが、痛いほどよくわかったと思う。わからないということがわかるというのは不思議なことだ。そして、なぜかその行為に妙に納得してしまうのだけど、それは純粋に映画の力だなーと感じる。それと、小明を刺したのは、今回は小四だったけど、他の誰かであった可能性も十分にあったように思う。ああいう環境であれば、少年が誰かを殺すという行為も、必然的なというか、確率論的なものとして、起こりうるのだと。この映画のなかでは、「男の子」は徹底して愚かで、「女の子」は徹底して刹那的で、そこがとても愛おしい。

 

●6月に撮った写真③

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(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, Cine Still Film 50D)