170604 サヴォア邸

パリで撮った写真⑨

建築の勉強をはじめて7年、ついにサヴォア邸を訪れることができた。嬉しかった。

厳格なルールを設定しつつも、随所でそのルールに違反する操作が施されていることが、いってみるとよくわかる。外観も不思議で、四面のファサードはそれぞれキャラクターがあって、水平連続窓にはサッシュが入っていたり入っていなかったりする。ちなみに、正面となる南東方向のファサードは、2階部分が外部テラスとなっているのにもかかわらず、サッシュがはまっていて (正面性を出すためだろうか)、これはほとんどマニエリスムだなぁと思った。厳格なルールの設定と、そのルールへの部分的な違反は、この建築のなかに、一言では表現できないような緊張感をつくっている。正確さと適当さが、抑圧と快楽が、単純さと複雑さが、葛藤し、輻輳する。ヴェンチューリが『建築の多様性と対立性』のなかで、サヴォア邸を執拗に例に出しているけど、その理由がよくわかる。

内部空間には様々な色が用いられていて、加えて、スロープが挿入されていることで"切れ目"のような空間の奥行きが多分にあるから、移動するたびに距離感が錯綜する。外部から内部、地上階から屋上庭園まで、流れるような多様なシークエンスのなかで、さまざまな空間の奥行きを感じながら建物のなかを歩き回ることができて、とても楽しい。シークエンス=時間の多様な可能性が、正方形の塊のなかに折りたたまれている。2時間という映像体験が折りたたまれた映画フィルムのようだなと思う。この建築は任意に逆再生ができ、ショートカットもでき、リピートが可能な映画のようだ。

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ひととおり見終わったあとで、身体的な空間だなぁという話になった。構成や配色、空間の流れみたいなものに、自分のからだが誘導されていく感じ。一方で、昨日見たアアルトのカレ邸も、身体的な建築だった。この、サヴォア邸の身体性とカレ邸の身体性は、どちらも身体性という言葉でくくってしまうと同じなのだけど、とても対比的な性質をもっている。サヴォア邸が対象としている身体はどちらかというと、TPSで上からみたときの身体性というか、とてもバーチャルな、漂白され、一般化された普遍的な人間の身体、という感じ。一方でカレ邸が対象としている身体は、FPS的というか、生々しい個人の、ルイ・カレの身体、という感じ。どちらがいいとかいう話ではないけれど、この対比はおもしろいなぁと思う。

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 《ひとり、誰もいない室内をさまよっていると、なぜか彼のアイディアが、彼がこの住宅に寄せた想いがわかるような気がした。ル・コルビュジエは、この住宅をひとつの夢にしたかったのだろう。四面を壁に覆われ、額縁状の窓からは周囲の田園風景が鑑賞できて、しかも地上からは浮遊している。それは彼の言う「ヴァルギリウスの夢」である。彼が唱えた「建築の五原則」などはここでは二の次だ。この住宅は天に向かって開かれた箱なのだった。》(中村敏夫『日記のなかの建築家たち』, p.134)

さめない夢のなかで、ひたすら歩き回る、夢遊病のように、こちらからあちらへ、空へ。肉体はヴァーチャルであり、生活の匂いはなく、腰を落ち着けるような空間は排除されている。中村さんの表現を借りればこれは一種の夢、あるいは物質化したユートピアである。

 (Villa Savoye, 1931, Le Corbusier)

(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, Bergger BRF 400 PLUS & Kodak PORTRA 400)

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