180207_わたしたちの家

 『わたしたちの家』を、渋谷のユーロスペースでみた。とてもおもしろかった。

http://www.faderbyheadz.com/ourhouse.html

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 2つの物語が「同時」に「同じ家」で進行すること。これが、清原惟監督の『わたしたちの家』の構成における骨子となっている。2つの物語は異なる別々の物語で、それらは基本的には「無関係」なまま、映画は進行する。この奇妙な設定により、大変複雑な時空間の錯綜が、なんでもない日本家屋を舞台に展開・成立する日常的な画作りとは裏腹に、まさに「SF」な緊張感をもって描き出されるのだ。以下、本映画から個人的に感じたことの備忘録。

 

同時性の表象

 ひとつの映画という枠組みのなかで、かつ同一の空間=わたしたちの家、を舞台にしているから、どうしても観客のうちには、並立するふたつの物語を何らかの因果関係のうちに結び付け「ひとつの物語」にまとめあげてしまうという引力が生じる。だから「異なる物語」と簡単にいっても、それを「あきらかに異なる物語」としてごく自然に物語上に併置・併存させることは並々ならぬことであり、現にこの映画では、ある世界とある世界を「結びつける」ことではなく、ある絶妙なバランスのもと「切り離す」ことにむしろ相当な技術的労力が費やされていたと思う。それがこの映画特有のストラグルとして大変興味深い箇所であり、監督の力量を感じるところだった。

 具体的に本映画では、中学生のセリと母親の桐子による母子二人暮らしの物語と、孤独に暮らす透子と記憶喪失のさなによる刹那的な同棲生活、の、2つの物語が同時進行する。上述したような引力にひっぱられて、映画冒頭でぼくは、このふたつの物語の因果関係を想定してして見てしまい、どちらかが過去でどちらかがその未来だとおもっていた(もちろんその可能性も残されている)。しかし映画が進行していくにつれ、この両者はまったく別々の世界線に属している(可能性が高い)と、徐々に気づいていく。どちらかが過去でどちらかが現代、のような単線的な時間軸に乗らないように、そして物語上の主-従を想起させないように、様々なアイデアが慎重に、繊細に折り重ねられ、結果として個々の物語は自律的に同一空間に存在することになる。これは、一定の時間軸をもって進行していく映画というメディアにおいては、すごく異質な営為であるようにぼくには思えた。しかし、たとえば集合住宅でいえば、まったく同じ間取りのなかで、まったくことなる生が営まれているということはごくごく自然に行われていて、そういった「生」の外部的な切断と非-意味的な接続みたいなものは、建築(による空間の分節)のもっているひとつの特質であるといえると思う。そしてその特質は、ときに「ぞっとしたもの」として(たとえば団地の立面を眺めたときに時折感じるような)、つまり文字通りホラーやサスペンス的なものとして露呈する。だから清原監督が「ひとつの家の共有」ということに注目し、さらにそこでの「分離」を重要なキータームに据えることで、ホラー的な物語を組み立てることになったのは、ある意味では自然な成り行きといっていいのかもしれない。では本作において、異なる物語の同時併存は、いかなる仕組みによって実現しているのか。ひとまずこれについて考えてみることにしようと思う。

 まず、かなり重要なポイントとして、「家」がそれぞれの物語で、それぞれの家族によって、別々の仕方で生きられている、ということが挙げられる。「家」という共通のフレームに、ある程度の現象学的な蓄積が別々の仕方で肉付けされることで、両物語のどちらの登場人物も同じくらいに実在的だという感触を、観客は引き受けることになる。「生きられた家」の丁寧な空間構成が演出するのは、この物語が始まる以前の、ある程度の時間の蓄積である。たとえば透子がひとりで「あの家」に住んでいることは、なんらかの家族的な因縁を想定しなければリアリティがない。また、セリの物語の中心となる要素はここにいない父との関係性である。あるいは、物語の両方でちらっと描写される裏の倉庫の存在も見逃せない。「家との不明瞭な因縁」にしろ、「父の不在とその痕跡」にしろ、「謎の蔵」にしろ、登場人物と家との時間的に継続した関係性を暗示させるエレメントといえるとおもう。だから、「最近引っ越してきました」ではなくて、そこで暗示されているのはすくなくとも十数年、あるいは数十年の時間の継続、いわば「厚切りされた時間」である。加えて、両物語ともあきらかに街の描写は"同じ時代"のものである。これらを前提とすると、どちらかの物語を過去のものとし、どちらかを現在のものとする時間軸の設定は少なからず困難なものとなる。どちらの物語も同時代、といか現代に起こっているものだとすると、両者は同一の時空間に両立し得ない。がゆえに、観客は「どちらかが実在であった場合はもう片方は虚構である」という認識を意識的しろ無意識的にしろ想像することになるだろう。

 同時刻的に、同一の場所を占有し実在を主張する2つの可能性。結果として我々は、このふたつの物語を「別々の世界線」で「同時(現在)」に起こっている物語として解釈する通路に、自然と導かれることになる。

 

物語の支持体としての「家」

 本作において、上述した物語の「同時性」を担保するのは、「家」のもつ他者性である。建築というのはいつでも、物語という「図」に対する「地」である。「わたしたちの家」は、異なる2つの物語の共通の「地」であり、ゆえに、両者は直接関係することなしに、「わたしたちの家」を通して代替的に関係し続けることなる。共通の「地」、すなわち共通の建築空間を媒体とすることで、「異なる」ということを留保しつつも、ある種の関係性を築き上げ、「無関係でありつつ関係する」という絶妙な緊張関係を描き出すことに、この映画は成功している。 

 同じ家を舞台にすることで、本来他者である人々の、細かな所作の差異が浮かび上がり、家の「生きられ方」、すなわち生活の現象学的な蓄積のようなものが鮮やかな対比をもって併置される。現象学的な蓄積とはさまざまな履歴をもった「モノ」、すなわち家具であり、カーテンであり、食器であり、靴であり、その他もろもろのオブジェクトの群がりである。本作は異なる2つの物語の「無関係的な関係」を標榜するが、「家」という共通のフレームを媒体とすることで、そのフレームに肉付けされるこれらのオブジェクトは交錯し、最終的には物理的な交換をともなうことになる。いわば、「生きられた家」の部分的な交錯。これが、本作のホラー的、サスペンス的な恐怖の引き金となっており、SF的な想像力をともなった、物語の重要な飛躍となっている。同じ間取りが連続するアパートで、となりの部屋の様子が偶然見えてしまったとき、そこに「ぜんぜん異なる世界の広がり」がごく普通に存在していたときの、なんかゾッとする感じ。「隣の部屋」はフィクションでなく、そこには芳醇な意味が充満した実在的な世界が広がっている。その、ごくごく当たり前の事実を認識したときの、得も言われぬ謎の恐怖感。本作の「怖さ」は、多分そういうものと近い質をもっている。

 「つぼ」「プレゼント」「障子の穴」といった非-人間的なオブジェクトは、この、物語間を移動し得るものとして描かれている。ただし、一方向的である。「片方の物語」は、相対する側からすれば幽霊のようなもので、そんな虚構の空間からの実空間へのフィードバックが、この「オブジェクトの一方向的な移動」である。しかして、オブジェクトの移動というのはホラーである。本来は(物語の構造上は)つながってはいけないものがつながるのだから。それはいわば、幽霊からのメッセージである。同時に「音」もまた物語間をまたがって移動することが印象的だった。サリたちの世界線におけるアンビエント音が透子たちの世界の場面まで持続する、という風に。このカットをまたがる「音の持続」は、通常の映画であればごくごく普通の、あたりまえの演出である。しかし、本作においてはこれもまた構造に対する明確な違反であり、ゆえに、むしろホラー的な演出として機能していたとおもう。

 ちなみにホラーばっかり連呼している気がするが、ホラー辺倒という雰囲気の映画でもない。本作でとりわけ強調されるのは女性たちの関係性の、その役割を超えた部分であり、たとえばセナと母は友達関係的であるし、透子とさなは恋人関係的でもある。これによって本作は、SF的ホラーを主軸に置きながらも、日常のほのぼのエピソードや、無くした記憶を巡るサスペンス的展開、あるいは恋愛モノとして側面や、学園青春的なドギマギなど、様々なジャンル表現を貫いていくのだ。

 

第3空間からの眺め 

 「図-地」ではなく、「図-地-図'」であるとき、すなわち「図」と「図'」の同時性を受け入れたとき、どちらかが現実ならば、どちらかが虚構であるという図式が一旦仮構されることになる。つまり、スクリーン上でセリ-桐子側の物語が進行するとき、透子-さな側の物語は一旦「虚構」として仮止めされるが、その後、透子-さな側の物語が進行するときには、今度はセリ-桐子側の物語が「虚構」として仮止めされる。「実在」と「虚構」が幾度も反転する、フレームが絶えず交換されるという構造を、本作はもつ。「図」と「図'」の「入れ替え」を可能とするのは、「地」の存在、すなわち支持体としての「わたしたちの家」の存在があってこそである。形式としては対位法、カウンターポイントが近いのだろうが、音楽的な経験よりももっと解像度が高いというか、経験の進行する速度がゆるやかなので、観賞者の想像力が介入する空白が映像の中に挟み込まれている。

 本来、映画鑑賞における「実在」と「虚構」という関係性は、スクリーンのこちら側という「実在」、と、スクリーンの向こう側という「虚構」という、安定した2項対立であるといえるだろう。しかし本作では、スクリーンの向こう側で、「実在」と「虚構」の絶えざる反転を見せつけられる。よって、それを観測することになる「スクリーンこちら側」は、いわば「第3の空間」であるといえよう。

 これまでの議論を一旦まとめてみよう。本作では、バラバラの2つの物語が同時進行する、という図式が、まず示された。その2つの物語は共通の「家」で展開するため、両者の住人が生活していくなかで蓄積したさまざまな「モノ」たちが、スクリーンに登場する。別々の物語における、本来交わることのないモノたち。これらは「家」という共通の空間を媒体とすることで、ホラー的に交錯する。この交錯の現場を、我々は「第3空間」から眺めることになる。物語と物語。の、「と」に立って物語を交互に眺めているという感じ。「図-地-図'」という図式の、「地」にカメラが置かれているという感じ。「家」という他者性と、「カメラ」という他者性が、アナロジカルに結び付けられるのだ。「建築」と「映画」は、ここで重なることになる。

 異なる世界における複数のモノが、無関係なまま併置されるのでもなく、かといって関係するわけでもなく、しかして同一のスクリーンの中で共存する。我々はそれらを、たとえば両世界をまたがる「壺」の動きを、ただ霊的な現象として鑑賞するのみである。そうした、ホラー的に交錯するモノの存在により仄めかされるのは、一見無関係である2つの物語の謎の関係性であるのだけれど、その関係性はあくまで「未定」のまま、謎のまま観客に投げ出され、委ねられる。因果関係は鑑賞者の、わたしたち各々のパースペクティブに委ねられている。本作において、因果関係のアナロジーはわたしたちのものである。というかむしろ、わたしたちがバラバラのオブジェクトたちを任意の仕方で観測することではじめて、それらは新たな「対象=オブジェクト」として結合し、それらは仮止めの因果関係として紡ぎ出されるのだ。わたしたちが「鑑賞する」ときに発生する第3の空間、と、その視座によって発生する小さな、仮止めの因果関係たち。それらが折り重ねられて、全く関係のなかったはずの2つの物語は、1つの物語へと、各々の仕方で繋ぎ合わせられていく。観客は同じ視点から物語を眺める。しかし、異なる物語を想像=創造することになる。

 「海にはすべての元素があるんだって」という、セリの言葉があったと思う。すべての元素が「つながりそう」な状態で浮遊し、そして実際にいくらでもつながりうる潜在力をもった海。本作でも、両物語にまたがるオブジェクト=構成要素たちは、構築可能性に開かれている。しかし一方で、そこでのつながり方のパタン、つながり方の一定の方向性、あるいはつながった結果生まれる枠組み、のようなものは、そうはいっても制作者の精密なコントロール化に置かれている。つまり、「なげっぱなし」では決してない、と。だからこそ、ここまで考察したいという欲望を掻き立てられるのだとおもう。

 

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 ぼくらは家に住んでいる。住みながら、どれほど空間を着飾って、そこでどれほど長い時間を過ごしたとしても、家には、建築としての確固たる骨格みたいなものが残る。それがほとんど空気になるくらい「弱い骨格」の建物もあれば、生活の仕方をかなり束縛してしまうくらいの「強い骨格」もあったりと、その強弱はまあ様々だけど、とにかく、残ることは残る。建築空間には、キャラの薄いやつもいれば、暑苦しいやつもいるし、一見普通そうに見えてイカれているやつもいて、どっちが良い・悪いとかではなく、それは人間でいう個性、空間のキャラクターみたいなものだ。それで、異なる2つの物語の「地」となり、バラバラな両者をつなぎとめる「支持体」としての家を成立させる際に必要になるのは、”ほどよく”キャラ立ちする建築空間だといえる(建築家は”ほどよく”という形容詞を軽視せず、この両義性を真摯に追求すべきだとおもう)。つまり今回のような映画を撮る場合、ある特定の、弱くもなく強くもないキャラクターをもった建築空間が、その都度要請される、と。おそらく清原監督がべつの家を見つけていれば、物語は全く別のものになっていたはずだ。建物空間が持つ不動のストラクチャーと、そこでの空間のキャラクター。それは、日々の何気ない生活があって、その何気なさの安定感みたいなものを約束してくれる基盤である一方で、その中での微細な生活の変化を柔らかく許容してくれるような包容力でもあって、それは建築空間の構造がもつある種の情動性である、みたいな、そんなカタイいい方もできるのかもしれないのだけれど、とにかくぼくら建築家が「設計」という枠組みで大なり小なり調整したいのは多分その部分で、その事実を、この映画は鮮やかみせてくれる。

 家に住むときぼくらは「もしかしたらここに住んでいたかもしれない別の世界線での住人」を、いつだって想定しうる。ぼくは、その想像力は切実なもので、生きていく上でけっこう重要なんじゃないかと、漠然とだけどおもっている。その漠々したおもいについて、この映画はひとつの解を示してくれているような気がして、同時代的な共感を勝手に感じたのだった。