JUNE24,2018_建築の日本展

○きのう森美術館で建築の日本展を、きょう近美でゴードン・マッタ=クラーク展をみた。

 森美の展示は資料性がすごく高く、日本中からよくこんなに模型や図面を集めたなと感心した。はじめて目にする模型等もおおくて、とくに前半部分はとてもおもしろかった。また、六本木ヒルズの最上階で待庵の実寸に入るという経験はなかなかクレイジーて、千利休はこの状況どう思ってるんだろうと想像すると楽しかった。丹下自邸の模型もすごかったな。ずっと見ていたかった。

 去年・今年と規模の大きな建築展が続いていたが、それらとはうまく差別化がなされていてよかったと思った。歴史を縦切りにするような展示においては、展示スペースの有限性もあって、キュレーションによって扱う作品も文脈もばらばらになるわけだけど、こうした状況は歴史の解釈の複数性をまさに浮き彫りにする。歴史は決して、確定した過去ではないのだ、と。とくに学生は、こうした展示において提示される歴史観を素朴に受け入れるのではなくて、あくまで個々人が各々の歴史観を調査・検討・設計するための道具として、それらをみる必要があるのだと思う。こんなことをいうとアカデミックな研究者の方々に怒られると思うけど、設計者に必要な歴史の読み方は、歴史の教科書の内容を疑いつつ、「こうでもありえた」世界を想像し、一見なんの関係もないような過去の建築物を個人的に関係づけたりしながら、確定している(ようにみえる)過去の歴史を書き変え、自分なりの歴史的なパースペクティブを形成することであり、それによって過去の蓄積から自分なりのアイデアを「切り出し」て、実作へとフィードバックさせていくこと、なんじゃないかと思う。

 

 さて、おもしろかったとはいえ、本展にはいくつか疑問点もある。

1. まず単純に、展示のボリュームが大きすぎる。観賞者の体力を考慮して、展示への集中力を持続させる工夫として、もっと展示のリズムや規模をコントロールすべきだったのではと思う。とくに建築を専門にしていない方は、模型や図面から情報を読み取るのにより一層体力を消費するだろうから、やたらと資料を用意するよりも、決定的な写真一枚をきちんとスペースを用意して展示するほうが伝わるということもあると思う。とくに土門拳の写真なんかは単体でものすごくパワーがあるわけだから、あの展示方法はもったいない気がした。

2. ライゾマのインスタレーションやホンマさんの映像など、模型や図面以外の伝え方が機能していない(ように思った)。とくにライゾマの展示は期待していたのに残念だった。建築における「スケール」は、単にヒューマンスケールということだけをさすのか、とか、もっとダイナミックな建築のスケールを技術を駆使してみせればよかったのに、とか、微視的なスケールの変化をみせるのならもっとインスタレーションへの没入感がほしかった、とか、色々言いたいことある*1。映像(や写真)でどうやって建築を見せていくのかという問題は、もっと建築の展覧会をやるときに批判的に掘り下げていくべき問題だと思う。

3. 展示室上部に示される巨大なアフォリズム的テキストはやりすぎだと思う。「日本上げ」になってしまわないような配慮はいくつか感じる部分もあったが、あの「神々のお言葉」みたいな言葉が掲げられていると、そう思われてもさすがにしかたないだろう。 展示としてキャッチーでわかりやすくなるのは確かだと思うが。

4. 「日本らしさ」を強調することが、そんなに重要だろうかと思う。「西洋のモダニズムの派生」ではない仕方で日本建築を位置づける、ということは大切だと思うのだけど、それをやるならば、もう一度西洋をはじめとした諸外国へとボールを投げ返す必要があると思う。もっと野心的に、「日本建築の周縁としてモダニズムを位置づける」くらいのことをやってほしい。

 

○建築展をみたあとの、アピチャッポンの展示がすごくよかったのだが、なかなか感想を書こうとしても難しい。とにかくみてよかった。ゴードン・マッタ=クラーク展もすごく面白かったのだけど、感想を書くのは明日かな。

 

 

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(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, Fujifilm PRO 400H)

*1:「スケール」という用語は建築分野で頻繁に用いられるが、その定義は曖昧で、よくいえば多義的である。たとえば、「スケール」を単に「大きさ(サイズ)」という意味で用いる場合も多い。そんな中で、フランスの建築理論家であるフィリップ・ブドンは著書『建築空間ー尺度について』において、建築における「スケール」という概念の説得力ある定義をおこなっている。ブドンによれば、建築においては、プロポーションが「同一の空間の中でのある部分と他の部分とが有する比」を意味し、スケールは「一つの空間の一部とそれとは異なる別の空間の一部との比」を意味する。たとえばマッチ箱の底辺と高さを比較しているとき、それはプロポーションに着目した分析である(マッチ箱という閉じた体系の中の比)。一方でマッチ箱とタバコの大きさを比較する行為はスケールに着目した分析である。マッチ箱の寸法を知るためには、マッチ箱以外の、しかもしかも既に寸法を知っている別の要素との比較をおこなう必要がある、と。ゆえにスケールの分析を徹底すると、自身の身体それのみが寸法比較の手がかりとして残るという。こうしたブドンのスケールの説明は概ね正確であると思うけれど、最後のデカルト的な還元に関しては批判が可能で、たとえば階段や窓等の慣習的な要素や、あるいは周辺環境との関係なんかによっても、スケールは規定される。