JUNE10,2018_カントの復習

ジル・ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』(法政大学出版局, 1991)をドゥルーズを専門にする研究者の方と精読するという、謎のハードコアな会に参加させて持っているのだが、もちろんぼくは哲学は門外漢なので、かなりついていくのが大変だ。

 ドゥルーズが本書で扱うスピノザの「表現」というのは、『エチカ』の第一部、定義六から現れる以下のような記述である。

私は神を絶対無限の存在者、つまり、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなる実体のことを解する。

なんのことやらさっぱり意味がワカリマセン、、、という感じなのだけれど、ここの記述における「表現」に着目するということは、哲学の専門家の方からするとものすごくクリエイティブな、すごいことらしい。

 ということで、ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』を読もうと思った場合、スピノザの『エチカ』の内容を把握しておく必要がある、ということはすぐに理解できるだろう。しかし、哲学の世界はそんな甘くなく、スピノザが『エチカ』において批判・発展させたデカルトの哲学は最低限理解しておく必要があるし、ドゥルーズの本書後半で登場するライプニッツも同じく、で、さらにドゥルーズの議論の前提として、カントの哲学も当然理解しておく必要がある。普通ならここで気持ちが折れるのだけど、研究者の方が本書の内容に入るためにしてくれたカント・デカルトスピノザの復習の内容がとてもわかりやすかったので、自分でもなんとか骨子は理解をすることができた、とおもう。以下、復習のためのメモ。今日はカント哲学のいくつかのタームについて。

 

*  *  *

 

○基礎づけ
 学問は学問たる所以は、その学問固有の対象をもっていることである。しかし、自然科学や医学がめざましく発展していくなかで、哲学が学問として対象として扱う領域は(例えば精神や神といったものは)常に侵食されてきた歴史がある。そうした状況においてまずもっておこなわなければならないのは、固有の学問領域の整理と理解である。まず、自然科学を例にとってみよう。

 自然科学には、一般的に二つの過程から成立する。それは「仮説の形成」と「実証(観測)」であり、自然科学はこの過程を決して手放すことができない。しかし、実証(観測)とは一般に知覚をともなうものである、が、デカルトの方法的懐疑でも問題になった通り、知覚は常に疑わしいものである。この「表象=Vorstellungの客観性」は自然科学をそもそも成り立たせている前提条件であり、ゆえに自然科学それ自体によっては決して保証されないという問題を含んでいる。
 また、ヒュームによれば、因果律(時系列A,Bにおいて、Aが原因となってBが必然的に生じるといった命題)もまた疑わしい。たとえば太陽が東から昇り西に沈むのを何度経験したとしても、それは単に経験の反復であって、それだけを根拠に明日太陽が西からのぼってくることを否定できはしない。経験の恒常的な反復は、その経験が必然性をもつかのように錯覚をさせ、その錯覚した必然性を因果律と呼んでいるのではないか、というのがヒュームの懐疑だった。そういった“経験”に基づく因果律が、我々の意識のなかに、あるいは様々な論証のなかに、いくつも挟み込まれているのではないか。
 ということで、仮説の形成に関しても(ヒューム)、また仮説の実証に関しても(デカルト)、各々に懐疑論者が参入しうる余地が残されているが、カントによれば、哲学が固有な領域を見出すのはまさにこの部分である。つまりこうした懐疑をはさみうる状況にあって、「仮説の形成」と「実証(観測)」を保証していくのが哲学の役目である、と。この保証はカント哲学においては基礎づけ(Grundlegung)と呼ばれるものだ。

 

○分析命題と総合命題
 一般に命題とは主語(S)と述語(P)が結合したもので、カントにおいては主語(S)と述語(P)の総合、と呼ばれる。命題というのは、ただ主語と述語を総合したものではなく、ある「媒介」を介した総合でなければならず、さらにこの媒介の性質によって、命題の真理性が決まってくるという。こうした命題は、分析命題総合命題の二種類の仕方で分類することができる。

 分析命題とは、主語(S)に対して主語のうちに含まれているものを述語(P)として措定する命題である。このとき、主語(S)と述語(P)を媒介し、両者を総合するものは矛盾律(あるいは同一律)である。たとえば「この猫は動物である」という命題は、「この猫」(S)を分析すれば導き出せる性質「動物」を述語とする命題であり、「猫である」に含まれている「動物」は同一律(A=A)によって述語づけられ、総合が達成されている。このとき、主語が包摂する述語の内容が、限りなく主語それ自体と近傍する場合は、トートロジーということになるのかなと思う(たとえば「猫はやっぱり猫でした。」)。

 総合命題とは、主語(S)に対して主語のうちに含まれていないもの(P)を主語に付け加えることによって成立する命題である。そして、このとき主語と述語の総合の媒介となるのは経験、もしくは「あるX」となる。たとえば「この猫は近隣のボス猫である」というとき、「猫である」(S)をいくら分析してみても「ボス猫である」という性質は導けない。よってこれは総合命題であり、ある認識の拡大をもたらすものだといえよう。

 

アプリオリとアポステリオリ

 アプリオリとは「経験に由来しない」という意味で、アポステリオリとは「経験に由来する」という意味である。この区分というのは、カント哲学においては分析/総合という区分とともに考えられるべきものだ。

 先ほどの例でいくと、命題「この猫は動物である」は分析命題であり、「猫」という概念そのものに「動物」という性質が含まれているから、この命題の妥当性は、ある猫に対するある具体的な経験を持たずとも確認することができる。よってこの命題はアプリオリな命題である(結局のところすべての分析命題はアプリオリな命題となる)。一方、命題「この猫は近隣のボス猫である」は、この猫という主語をいくら分析してもボス猫であるという性質は出てこない以上、この猫の性別や他の猫との関係を観察したりと、そういった「経験」を必ず媒介しなければ、その妥当性は確かめることができない。経験を媒介とする以上、この命題はアポステリオリな命題である。

 しかし、すべての総合命題がアポステリオリというわけではない。総合命題は、主語に含まれぬ性質を主語に付け加える命題である以上、付け加える際に必ずある何かに依らなければならないのだが、経験以外の何かに依ることで成立する命題もありうる。言い換えればアプリオリな総合命題がありうる、と。それは、経験に先立つアプリオリな能力を経験にあてはめることによって可能となる。

 以上を背景として、前述したヒュームの懐疑を捉えなおしてみよう。ヒュームが疑った因果律は「すべての変化には原因がある」(すべての変化は原因を有する)と表現されるが、この命題は総合命題である。変化という概念は、「ある状態・位置から、他の状態・位置への移行」を意味するが、ここには「原因を有する」ということは含まれていないからである。この命題は、ある原因Aが生じれば、必然的にあるBが生じるという、AとBの「必然的連関」を示すものだが、しかし経験は、こうした必然性を決して教えてくれはしない。経験によって説明することができない以上、この命題はアプリオリな総合命題と考えざるをえない(命題を総合する、経験以外の「X」が存在する)、と仮説する必要が生じる。

 基礎づけ(Grundlegung)とは、主語と述語をつなぐもの(経験以外のあるX)を明示することである。つまるところカントの哲学とは、アプリオリな総合命題が成立するかどうかを洞察する哲学なのである。そしてアプリオリな総合命題を成立させる、経験以外の「あるX」を問うこと(我々の先天的な認識(=直感)がいかにして可能となっているのか、その可能性と根拠についてを問う認識)は超越論的圏域であるから、アプリオリな総合命題の総合の根拠を考えるということは、経験以前の、我々の認識そのものの吟味を遂行することになるだろう。こうしてカントの哲学では、我々の外部の対象から、我々の認識そのものへと、考察を移していくのだ。

 

○批判哲学

 認識そのものを吟味する という点で、カントの哲学は超越論哲学であると同時に批判哲学である。カント以前の形而上学は、我々の認識の有限性に無自覚なままに、有限の彼方にある領域(神、存在、世界)を描いてきた。我々の認識が正確に対象を捉えることができるのかを問うことなく、ある意味に自由に神や世界を定義してきたのだ。ゆえに、アリストテレスの完成された論理学や、一定の速度をもって進展する数学や自然哲学とは異なり、形而上学は完成も進展もせずに、ただ無政府状態に陥っていたのではないか、とカントは序文で述べる。批判哲学の意義は、認識そのものの批判=吟味を通じて、認識の限界を確定させること、にある。すなわち批判哲学は対象の知なのではなく、知の知でなくてはならない。

 ドゥルーズによれば、カント以前の独断的合理論には二つの特徴がある。ひとつは、認識の秩序と存在の秩序の同一性、すなわち主体と客体の合目的性を前提とすること。我々が正しくある対象を認識することができれば、それだけその対象そのものの認識に近づくという考えである。もうひとつは、その合目的性それ自体は、我々有限な認識主体にとっては認識不可能な理念であり、その正当性は常に暫定的なものであるが、独断的合理論は神によって合目的性を正当化し、確実なものとする。この意味で独断的合理論は神学でもあると。

 このときドゥルーズが念頭に置くのは、デカルトである。デカルトは『哲学原理』において、人間が理性を正当に用いている限り、つまり我々が明晰判明である限りにおいて、その知は直ちに対象についての知として認められ、また、知と対象の一致はデカルトの方法的懐疑によっていうまでもなく懐疑の対象となるのだけど、この一致を保証するものとして神が登場することになる。神が善なる意志で人間に知性を与えた以上は、その知性を我々が正しく、明晰判明に用いている限り、知と対象の一致は保証されるはずだ、と。

 

ということで次回は(といっても明日ではないが)、カント以前の哲学について、特にデカルトについての復習をば。