MAY12,2018_ムクドリと高村光太郎

○ようやく天候が安定してきた。近所の緑道では、ムクドリがすごい勢いで草むらをつついていた。あのかわいらしい黄色いくちばしをつかって、何かを夢中に、超食べてた。それを眺めながらぼくも、セブンでかったアイスコーヒーを超飲む。天候的には、今の時期が一年のなかでもっとも気持ちいい時期かもしれないなとおもう。

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(Mamiya RB67 Professional, Sekor 127mm F3.8, FUJICOLOR PRO 160NS)

 

高村光太郎は彫刻はもちろんだけど、詩もすばらしい。随筆もまた然り。

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この時期に読みたい高村の文章は数多い。たとえば、

 http://aozora.binb.jp/reader/main.html?cid=43783 ( 高村光太郎 「山の春」)

など。とはいえ、彫刻家である自分がなぜ詩を書くのか、ということについては少なからず葛藤があったみたいだ。が、高村の最終的な落とし所はとてもクリアだ。

私は何を措おいても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとい善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。 ところでその彫刻家が詩を書く。それにどういう意味があるか。以前よく、先輩は私に詩を書くのは止せといった。そういう余技にとられる時間と精力とがあるなら、それだけ彫刻にいそしんで、早く彫刻の第一流になれという風に忠告してくれた。それにも拘かかわらず、私は詩を書く事を止めずに居る。 なぜかといえば、私は自分の彫刻を護るために詩を書いているのだからである。自分の彫刻を純粋であらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑きょうざつして来るのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。私には多分に彫刻の範囲を逸した表現上の欲望が内在していて、これを如何とも為がたい。その欲望を殺すわけにはゆかない性来を有もっていて、そのために学生時代から随分悩まされた。若し私が此の胸中の氤いんうんを言葉によって吐き出す事をしなかったら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢い、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。*1

彫刻を純粋にするために詩を書く、と。これにはとても共感した。