MAY3,2018_マミヤRB67がきた②

○RB67には露出計が内蔵されてないのだけど(RZ67の方にはついているのだろうか)、撮影時はまだセコニック等の露出計を持っていなかったので、ちゃんと写っていたことにまずは安堵する。その安堵感と満足感を一旦消化した後、返ってきた写真をじっくり見ていて、なんとなくカメラの癖や写りの特徴はつかめた気がしていて、次回の現像が楽しみになっている。

 ブローニーの写りはとかく精細で、普段ゴミとか街中の謎のオブジェクトを撮ったりしている自分にとってはとても嬉しい。このカメラを使おうと思った大きな理由は、決して綺麗ではない(ある種の美しい貧しさを持った)被写体を、変に詩的な効果を付加することなく、つまりはその綺麗でなさを保ったまま撮りつつも、然して写真としての強度を持ったイメージをつくりたいと考えたからだ。そういう写真は、直感的にではあるのだけど、デジタルカメラだとかなり厳しくて、さらにいえば35mmではなく中判、あるいは大判を用いる必要がある、とずっと感じていた。それは大判カメラでコタツの上のみかんを撮って巨大なプリントを作成する安村崇さんをはじめとして、バケペンで日常風景をとる佐内(正史)さん、大判でニュータウンを撮るホンマさん、6×9判で郊外の風景写真を撮った清野賀子さん等々の写真家が狙った方向性と少しだけ、近いのかもしれないなと思う。

 とはいえ、機動力や瞬発力はやはり35mm、あるいはデジカメに圧倒的に劣る。重い、でかい、ウェストレベルファインダー等、あらゆる条件が相まって、写真はどちらかと言うとスタティックなものになるとおもう。自分の場合こういう写真をもともと撮っていたから特に問題ないのだけど、街中でスナップとなると絶対に35mmかなと思う。適材適所、使い分けだ。これから継続的に使っていって、色々試していければなと思う。

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(Mamiya RB67 Professional, Sekor 127mm F3.8, FUJICOLOR PRO 160NS)

 

○ 2年前、このブログの3つ目の記事で、アキ・カウリスマキ監督の「過去のない男」の感想を書いているのだけど、その中でぼくはこんなことをいっている。

あらゆるものがものすごく形式的なのだ。しかし、その形式を演じる人々に美男美女はおらず、物語的クライマックスもなく、背後の風景はことごとく貧しい。骨格となる形式的要素をものすごくドライに、そっけなく描写することで、カウリスマキはその形式の外側にスポットを当てる。そして、形式の外側にある人々のなんでもない日常は、シュールな間やユーモラスな会話、独特の色彩センスや演劇的な演出など、カウリスマキの作る独特の映像手法によって、そのなんでもなさを維持したまま美しく描写される。そう、この映画を今一度みたいと思ったのは、社会的な敗者や弱者といった、貧しい人々のために映像をつくるカウリスマキの姿勢そのものに共感をもっていたからだ。僕も、こんなことは誰も見ていないブログくらいでしか言えないのだけど、力なき人々のために建築をつくりたいと思っている。(……)貧しさを、その貧しさたる所以をそのままに、そのなんでもなさをそのままに、美しい空間へと翻訳したいと思う。このとき必要なのは、虚構を美しく演出するためのレトリック=手法、である。というわけで、美しい貧しさ、という矛盾した表現を目指すとき、逆説的に、中身のない、意味不明でありつつ謎の魅力があるという類のレトリック(いいまわし)が要請される、というのが、今のところの僕の仮定なのだけど。

基本的には今も、考えていることは変わらない。抑圧される人々や、報われることのない事物など、この世の、ままならぬ思いを抱えたあらゆる存在にむけて、ぼくは建築を、写真を、テキストを、つくっていきたいなと思っている*1

o-tkhr.hatenablog.com

*1:ただ建築に関してはクライアントがいないと成立しない、非常に他律的な分野ではあるので、その辺はかなり葛藤を抱えるところではあると思う。がんばれ、未来の自分(人ごと)