180203

●藝大の卒業・修了作品展にいった。先端の富澤大輔さん、山本暦さん、建築の板坂留五さん、油の奥誠之さんの作品がとてもおもしろかった。

●富澤さんの作品はスライドの映写機を2台使ったものだった。富澤さん自身が撮ったであろう新しい写真と、過去に撮られたであろう古い写真が、フィルムカメラやパワースライドといった「古いメディウム」を媒体とすることで等価に並べられ、映写される。デジタル化によって画像の加工が一般的になり、写真を素朴に信じるということはほとんど困難な時代になっているけれど、その一方で写真は「記録」の媒体で有り続けている。「なんとなく正しそう」な、懐疑すべき、あやしい記録としての写真とどう向き合うか。そんな、虚実が曖昧になった写真の記録性について今一度問うていくという姿勢には現代的な意義があるとぼくは思う。富澤さんの作品では、フィルムカメラ・映写機という古い道具を用いることで、過去に撮られた写真との直接的な接続・交流がおこなわれているけれど、同時にその写真には、現代の見慣れた風景に「古さ」を付加さているような奇妙な感触がある。それはたとえば、「古いもの」を現代的な技術をバリバリに用いて撮影するクリストファー・ウィリアムズ(https://goo.gl/eT2PXv)の写真とはまったく逆方向の感触だが、それでいて同様の質の現象がおきているような気もする。写真が宿命的にもつことになる現在と過去の時間的なギャップと、そこでの緊張感をどう表現するか。ウィリアムズと富澤さんの写真は、みかけはまったく違うけれど、そういう意味では似ているのではないか。たとえが適切かはわからないけれど、富澤さんの作品から受ける印象は、エドワード・ヤンの「ヤンヤン夏の思い出」をみたときの感じとも、なぜか近しいと感じた。異なる時間軸の物語が、同じ空間で並列して進行していく、と。だから、古いものと新しいものが渾然一体に押し寄せてくるこの感じは、フィクションを構築していく手法としても使えるのかもしれない。富澤さんが撮った映画をみてみたいとおもう。

 

●山本暦さんの作品も、虚実が曖昧になる感覚というか、イメージが実体化し、実在の物体が虚構化していくような構造があって、とてもおもしろかった。相当高度な技術と、空間的なセンスをもった人だと驚愕した。この手のテーマは、たとえば昨年山本現代でおこわれた上妻世海さん企画の「Malformed Objects」とか、特にそこでも展示されていた永田康祐さんの作品なんかとも共通すると思うのだけど、山本さんの作品の場合、作品の「構造」や「仕掛け」があっけらかんと示されている、さらけ出されているところがとても重要だと思う。レアンドロ・エルリッヒ的なあっけらかんさ。たとえば永田さんの作品は本当にすごいと思うのだけど、「秘密」や「謎」がやや暗示的にインストールされている感じがある。「仕掛け」が明示されているのは確かなんだけど(たとえばフォトショの修復ブラシを使う、というような)、それらは「仕掛け」として一旦棚上げしておいていい問題で、「謎」を作為的に置くことで発生する運動それ自体によって発動しうるパースペクティブの切り替わり・変換・融合・切断、をどう制作していくのか、というところにも力点が置かれているような気がする。山本さん場合、「世界をみる為の方法論」という作品名の通り、「仕掛け」そのものを空間化し、その内部に身を置くような感覚がある。そこでは「仕掛け」自体が透明な分、余計に知覚の不安定さや不確定さを「凝視」させられることになる。

 

●建築の展示は、ぼくが建築を専門にしているということもあるかもしれないが、個々の作品にかけられている熱量はすさまじいものの、衝撃を受けるようなものは少なかった。それでも、板坂留五さんの「半麦ハット」は、とても素晴らしいプロジェクトだとおもった。たまたま作者のプレゼンを聞くことができ、それに対する講評で、「結局サンプリングなのか」ということをおっしゃっていた先生がいたのだけど(野沢さんだったか)、それは批評のポイントとしてはずれているだろうと感じた。何かをサンプリングして、それを組み合わせる態度というのは、ぼくらの世代(インターネットが普及した1995年以降、ミクスチャー文化が標準的になった時代)の制作の仕方としてはむしろ王道の方法だ。サンプリングという手法それ自体の是非を問うのは既にナンセンスで、ヒップホップがそうであるように、そこで問われるのはむしろ引用と編集のセンスのオリジナリティーであり、その結果がイケているかどうかだけだ。

 サンプリングにも、良いサンプリングと、ダメなサンプリングが、あきらかに存在する。その差はなんだろうとぼくはよく考えるのだけど、「サンプリング元への遡及」が可能かどうか、が鍵になっているとおもう。たとえば、タランティーノの映画は典型的なサンプリングものであり、同時にうまくいっているなと感じるものだ。どうしてそう感じるのかというと、たぶん、タランティーノは作品ごとにある特定の「ジャンル」をあつかうのだけれど、常に「そのジャンルの映画の見方」を示してくれているような気がするから、じゃないかとおもう。「キル・ビル」は、単に「カンフー映画」っぽいということを超えて、「カンフー映画はこう見ると楽しい」という、方法的な部分まで示されているような気がする。ぼくはカンフー映画というものをそれまで見たことがなかったし、どう見れば楽しめるのかよくわからなかったけれど、「キル・ビル」鑑賞後は、タランティーノ的なパースペクティブを獲得できたのか、なんとなくカンフー映画を楽しめる身体になってしまっていた。そのジャンルへの「愛」を観賞者にインストールするような、そういう謎の力が、タランティーノの映画にはある。「悪いサンプリングもの」の場合、それとは真逆で、大抵の場合ネタ元の存在は隠蔽される。それらにはサンプリング元への愛が欠如しており、それを単なる道具・素材としか考えておらず、ゆえにその作品単体の「閉じた」経験しかもたらさない。あるいは、たとえば典型的なポストモダン建築の場合、サンプリング元を特定するにはある高度なリテラシーが要求されるのだけど、それも「サンプリング元への遡行回路」のエリート主義的な限定である。ポストモダン的に「引用」を主題としていても、たとえばFake Industries Architectural Agonism(https://goo.gl/D7moEo)が新しいのは、ネタ元をあっけらかんと明かし、そこへの遡行性の回路をちゃんと構築しているからだ。おおむね、「うまくいってるサンプリング」はエリート主義的ではなく、つまり「わかるやつにはわかる」ではなく、(良い意味での)ばかっぽさ、「見ればわかる」という感じ、あるいはそこぬけの明るさみたいなものがあるとおもう。

 板坂さんのプロジェクトは、スタディの段階や、具体的にどういった「カケラ」が収集できたのかを示さなくとも(それはそれでとてもおもしろいのだけど)、実際に計画された空間それ自体をみれば、あるいはディテールそれ自体をみれば、その建物の立地環境やまちの雰囲気みたいなものを一挙に理解できてしまうような、そんな力をもっていると思った。タランティーノ的な、「サンプリング元への遡行回路」みたいなものを実装した建築が存在すれば、「こういうふうに見れば、この町って結構面白いよね」という、「見方」そのものを提示するような建築にもなりうるのだろうとおもうし、この建築はそうなる可能性がある。ある建築を構成する具体的なエレメントとその組み合わせ方を通して、「淡路島」というジャンルをおもしろがるためのパースペクティブを、専門家でない一般の方々と共有するということ。このとき重要なのはやはり、サンプリングされたカケラがカケラのまま展示してあるのではなく、それらが組織され、ひとつの有限なオブジェクトにまとめ上げられていることなのだろう。たとえばこの提案における、「カケラがある特定の状況=視座を獲得することで通常とは違った仕方での使用法が考案される」という発明的な状況は、プロジェクトを1つの案に収束させていかなければならないという切断的な有限性を受け止め、そのなかで、たとえば部材同士が宿命的にもってしまう「勝ち負け」に対して真摯な眼差しをむけることで、はじめて生じている。また、「カケラ」はモノであったり、モノとモノが組み合わされる状況だったり、あるいはもっとフラジャイルな状況だったりするのだけど、そういったサンプリングの対象化をおこなう際のフレームの大きさみたいなものも、この提案がもつある柔らかさの要因になっているとおもう。

 

●奥誠之さんの作品はいろいろまわって最後にみたのだけど、シンプルに、美的な強度をもっとも感じるものだった。ひとつひとつ、別の和音をそれぞれ聴くような感じで、絵を見ていた。一枚の絵に、ある構造を埋め込むようなことはむしろ避けて、単一の和音に徹しているという感じ。絵の質感によってもたらされる、ある情緒みたいなものがあるとして、それは物語と違い、特定の文脈を必要としないものだと思う。「曲」は文脈を必要とするけれど、「和音」は必要ない。たとえその絵が私的な物語、たとえば日記のようなものだったとしても、「和音」という意味では普遍的である。そういう意味で奥さんの作品は、一枚一枚は和音的というか、あるひとつの質感、情緒、ハーモニーを丁寧に語っている。

 和音、ハーモニーには、1度/3度/5度のいわゆる「トライアド」と呼ばれる組み合わせがある。それは、ぼくらがそれを聴いたときに「調和しているな」と感じる音の組み合わせだ。それに対し、たとえばジャズや現代音楽では、あえて濁ったハーモニーや、9度や13度といった、テンションをふんだんに盛り込んだコードをつかったりする。ジャズのアドリブでは、あえてコード進行から外れる音、いわゆる「アウトした音」を使ったりもする。それら、単体では不調和な、濁った、アウトした和音たちは、しかし、「ある文脈において」はインサイドに聴こえたりもする。和音はそれぞれ、ある特定の情緒をもっている、が、それは状況によって変化しうる。単体では調和していない和音が、あるときには調和して聴こえてしまうような、人間の知覚のバグみたいなものが、ぼくはとても美しいなと思う。

 で、絵画の一枚一枚が雄弁に物語るわけではなく、それがあくまで和音=コードに徹するとき、曲の「流れ」を決定するのは多分、展示室の構成ということになるんだろう。コード進行をどうするか、と。今回の奥さんの展示の場合、そのコード進行はオープンで、個々の絵の文脈は観賞者に委ねられているような感じがした(おそらく、観賞順をある程度コントロールするような構成方法もあったのだろう)。そんなことを考えながら展示室をうろうろしていたら、濁った、暗い絵の具で描かれた絵を、ふと美しく感じるような瞬間があって、そこで、上述した人間の知覚のバグのようなものをぼくは感じたのだった。

 

追記(2018/6/14)

電子音楽におけるサンプリングという実践の解釈もまた,以下の2つの考え方の間で揺れている.すなわち,サンプリングとは,世界の,あるいは「余白」のざわめきと同一視されるところの音楽的形態を一般に利用可能なものにすることである,という考え方と,それは,さまざまな意味作用の能動的な流用である,という考え方である.一方に,さまざまな形態や素材の受動的な再生産や,変容の連鎖――芸術家を無限に超えていくもの――におけるたんなる仲介者としての芸術家というものがあり,他方には,至高の解釈者――彼は,記号を再分解したり,素材を変形する能力を持つ――によって行われる切断や採取[prélévement]の操作がある.こうしてサンプリングは,あるときにはコピーや再利用として,あるときには切断や流用として現れる.また,リミックスの自然発生的哲学は.流れやプロセスに関する存在論的な言説とパフォーマンスや操作に関する操作上の言説を同時に集めることによって,受動的な再生産と能動的なポスト・プロダクションとの間でとまどうことになる.まさにこの場合においては,「環境的な」聴取の諸技術に,電子音楽の美学に浸透しているロマン主義からの離脱の方途を求めるのが適切であるように思われる.この観点からは,インスタレーションの装置,また.空間内で音を分配するための装置といったものが,現代アートにおけるプロトタイプに似た機能を果たすだろう.DJたちの言説に遍在するブリコラージュの概念は,探査すべきもう一つの道である.そこで問題となるのは,さまざまな形態をブリコラージュすることだけではなく,職人仕事や「アマチュア的」諸実践と緊密な関係を保つことによって,ブリコラージュそのものを,芸術的活動の一形態という尊厳へと高めることである.ここから芸術家の形象は,とりわけ複雑なものとなる.アマチュア・ミュージシャンや日曜画家というのは存在するが,しかしアマチュア芸術家であることは可能だろうか.この問いは,デュシャンの問いの地平にすでにあるものだ.

(エリー・デューリング:プロトタイプー芸術作品の新たな身分ー, 現代思想, 2015.1)