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160321

朝、某プロポーザルの二次審査を聴きに、水戸市へ。特急のなかでストラザーンの「部分的つながり」を読み進める。寝坊して特急に乗るはめになってしまったものの、やっぱり快適である。プレゼンテーションの後、近くの店でそばを食べる。納豆ざるそばというものを初めて食べた。なんでも納豆つければいいってもんじゃないぞ水戸よ!と思いつつも、美味しかったです。所謂ばくだんと呼ばれるものにつけて、ざるそばを食べる感じ。
今日の審査については色々思うところがあったけど、まだネット上で公表してはいけない情報も多そうなので、また後日。

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水戸芸で田中功起展をみた。興味深い展示だった。興味深いという、些々たる感想しかここに残せないのは、言語化しにくいプロジェクトだったってこともあるけれど、滞在時間が圧倒的に足りなかったからだ。それでも1時間弱はいただろうけど、ちゃんと見ようとすると5、6時間は必要なんじゃないかと思う。展示されていた膨大な量の映像は、一コマ一コマは他愛もないもので、これらすべてを鑑賞する必要はないかもしれないけれど、このプロジェクトを的確に批判するためには、すべての映像を網羅的にみる必要がある、と感じた。バラバラに点在する参加者たちの思惑を統合する唯一の方法は、自身の観測者としての視線と、そこに立ち現れる固有の経験だ。観測すること自体がある種、(参加者たちの追体験ではない)ワークショップへの自発的な参加、といえるのかもしれない。
とはいえ、断片的に鑑賞しただけでも、ある閉じた共同体が“民主主義的”にひとつゴールへと向かっていくときのギクシャクさを、まざまざと痛感させられた。ギクシャクしつつも、物事は進んでしまう。決断は下ってしまう。壺は完成し、演奏もできてしまう。完璧でない、ギクシャクとした構造のなかで、僕たちは動き、生きてしまっている。これはいったい、どういうことなんだろう。物事は実は“特に意味なく”存在できてしまう。その「存在のテキトーさ」をなんとか言語化できないものかと考えつつ、常磐線にのる。

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ミュージアムショップでアガンベンの「到来する共同体」を購入。ストラザーンを読んだら、買ったまま放置してある「中身のない人間」とともに読もう。実はアガンベンはまだ読んだことがないので、楽しみ。