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160322 過去のない男

アキ・カウリスマキの「過去のない男」をみた。なぜか彼の映画が猛烈に見たくなって、急いでレンタルしてきた。この映画を見るのは2回目かな。カウリスマキの作品は、社会的な弱者というか、敗者というか、何かしらのハンディキャップを持った人物をよく扱う。「過去のない男」も例外ではなく、ここでは暴漢に襲われ記憶を失った男の、人間性の回復が大きなテーマになる。フィンランドといえばアアルト・ムーミンカウリスマキ、という有名な言葉がある通り(?)、カウリスマキフィンランドを代表する映画監督だ。そしてフィンランドといえばとにかくオシャレで、自然豊かで、そして福祉制度も充実している夢の国、そんなイメージがあるような気がする。でもこの映画に出てくるヘルシンキの風景は、とにかく貧しい。どこまで現実に基づいた描写なのかはつまびらかではないけれど、この映画における貧しさの描写はかなり生々しくて、強いリアリティを感じた。
主人公は過去も名前もすべてを失って、海辺の汚いコンテナから過去も新たな人生をスタートさせる。このコンテナ空間の変化が、彼の人間性回復の様をよく表していた。日常生活の反復のなかで、様々なモノがあるべき場所に定着していく。コンテナという、これ以上にないジェネラルな空間が、個人の空間へと生きられていく様である。ジュークボックス(音楽)と猛犬ハンニバル(友)、キッチンと家庭菜園、それにイルマ(恋人)とソファ(セックスをするために重要だ)。他者に蹂躙されたアイデンティティを再生させるとき、これだけあれば十分なのだ。

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主人公の人間性回復の重要なキーになるのは、音楽と愛だ。その他にもこの映画には、物語のキッカケとなる暴力、起承転結の"転"となる銀行強盗など、古典的な映画文法といえるようなエレメントがちりばめられている。というか、基本的な骨格はこの古典的映画文法で構成されているといってもいい。あらゆるものがものすごく形式的なのだ。しかし、その形式を演じる人々に美男美女はおらず、物語的クライマックスもなく、背後の風景はことごとく貧しい。骨格となる形式的要素をものすごくドライに、そっけなく描写することで、カウリスマキはその形式の外側にスポットを当てる。形式の外側にある人々のなんでもない日常は、センスのある映像、シュールな間、粋でユーモラスな会話など、カウリスマキの作る独特の映像(レトリックを駆使した、とも言えそうな)により、そのなんでもなさを維持したまま美しく描写される。あえて形式的手法を用いて、かつそれを徹底的に否定し壊すしかたに、すごく共感する。それはそうと、この映画をみたいと思ったのは、敗者や弱者、貧しい人々のために映像をつくるカウリスマキの姿勢そのものに共感をもっていたからだ。僕も、こんなことは誰も見ていないブログくらいでしか言えないのだけど、力なき人々のために建築をつくりたいと思っている。お金持ちのためだけに自らのクリエイティビティを発揮するなんて、死んでもごめんだ。そんなことを考えているとき、彼の映画には本当に勇気づけられる。
貧しさを、その貧しさたる所以をそのままに、そのなんでもなさをそのままに、美しい空間へと翻訳したいと思う。このとき必要なのは、虚構を美しく演出するためのレトリック=手法だ。カウリスマキ的な、「特に意味ないけど、なんとなくいいなぁと思わせるセンスの良い映像術」は、このために必要なのだ。そこでは逆説的に、中身がなければないほどいい、となる、というのが今のところの僕の仮定なのだけど。

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この映画をみていて、救世軍のありかたもそうだけど、なんだか共産主義の雰囲気があるなぁと感じていて調べたら、どうやらフィンランドにはそういった政治的・歴史的背景があるらしいことがわかった。東西冷戦中の北欧諸国の動向を「ノルディック・バランス」というのは高校で習ったような気がするけど、北欧4国のなかでフィンランドだけはソ連寄りの中立だったらしいね。内政的にはかなり社会主義的な体制だったらしい。その中でいわゆる「下流階級」を描こうとしたのは、カウリスマキにとって必然だったのかもしれない。

160321

朝、某プロポーザルの二次審査を聴きに、水戸市へ。特急のなかでストラザーンの「部分的つながり」を読み進める。寝坊して特急に乗るはめになってしまったものの、やっぱり快適である。プレゼンテーションの後、近くの店でそばを食べる。納豆ざるそばというものを初めて食べた。なんでも納豆つければいいってもんじゃないぞ水戸よ!と思いつつも、美味しかったです。所謂ばくだんと呼ばれるものにつけて、ざるそばを食べる感じ。
今日の審査については色々思うところがあったけど、まだネット上で公表してはいけない情報も多そうなので、また後日。

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水戸芸で田中功起展をみた。興味深い展示だった。興味深いという、些々たる感想しかここに残せないのは、言語化しにくいプロジェクトだったってこともあるけれど、滞在時間が圧倒的に足りなかったからだ。それでも1時間弱はいただろうけど、ちゃんと見ようとすると5、6時間は必要なんじゃないかと思う。展示されていた膨大な量の映像は、一コマ一コマは他愛もないもので、これらすべてを鑑賞する必要はないかもしれないけれど、このプロジェクトを的確に批判するためには、すべての映像を網羅的にみる必要がある、と感じた。バラバラに点在する参加者たちの思惑を統合する唯一の方法は、自身の観測者としての視線と、そこに立ち現れる固有の経験だ。観測すること自体がある種、(参加者たちの追体験ではない)ワークショップへの自発的な参加、といえるのかもしれない。
とはいえ、断片的に鑑賞しただけでも、ある閉じた共同体が“民主主義的”にひとつゴールへと向かっていくときのギクシャクさを、まざまざと痛感させられた。ギクシャクしつつも、物事は進んでしまう。決断は下ってしまう。壺は完成し、演奏もできてしまう。完璧でない、ギクシャクとした構造のなかで、僕たちは動き、生きてしまっている。これはいったい、どういうことなんだろう。物事は実は“特に意味なく”存在できてしまう。その「存在のテキトーさ」をなんとか言語化できないものかと考えつつ、常磐線にのる。

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ミュージアムショップでアガンベンの「到来する共同体」を購入。ストラザーンを読んだら、買ったまま放置してある「中身のない人間」とともに読もう。実はアガンベンはまだ読んだことがないので、楽しみ。

160320

長らく続いていたインターン先での仕事も、先週でひと段落した。卒業式も終わり、さぁ新シーズンの始まり!という頃合いなのでブログをはじめてみた次第である。ブログ開設は今年度の大きな目標だったから、丁度いいタイミングだった。開設が目標とはお前意識低いなと思われるだろうが、いやそうでもないと言いたい。まずブログのタイトルである。世のブロガーたちはどうやって決めているのだろう。僕は名前をつけたりするのがすこぶる苦手なので、かなり時間がかかってしまった。といっても、このタイトルは某GENちゃんに考えてもらったものなのだけど。思わず声に出したくなるような内容を心がけよう。

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朝、簡単に部屋の掃除、洗濯。昼、久しぶりに展覧会を見に東京へ。ワタリウムのリナ・ボ・バルディ展をみる。展示してある作品数自体は少ないが、情報量は多かった。植栽や家具、タイルなど、実際のモノそのものを用いた会場構成だったこともあるけど、解説員らしきお兄さんに付きまとわれたのが大きかった。聞きもしないのに色々解説され、今日でリナ・ボ・バルディのマニアックな知識にやたらと詳しくなった気がする。
彼女の建築のなかでは、サンパウロ美術館なんかはもちろんいいのだけど、後期のサンタ・マリア・ドス・アンジョス教会が抜群にいい。最低限のコストの中で、現地の材料を用いながら、近代建築を風土に合わせて生成変化させる。ポストモダニズム建築が隆盛していた時代にこれだからね。
あと、彼女の「モニュメント」の概念が興味深かった。先のドス・アンジョス教会とも関係するけど、彼女が考えていた公共性とはなんだったのか、今議論されるべき内容かもしれない。これについては後日詳しく書くことにする。

ワタリウムから歩き、北参道のGAギャラリーへ。毎度おなじみ、世界の住宅展。圧倒的によかったのは、松岡さん田村さん、三家さん。アントン・ガルシアのムービーは相変わらず最高。

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夜、池袋のジュンク堂へ。マリリン・ストラザーンの「部分的つながり」を買い、近くのカフェでちょっと目を通す。水声社の人類学の転回シリーズはどれも面白そうだなぁ。