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160405

朝の散歩が最近の日課になっている。
というのも、去年の終わりあたりからだろうか、近所の家でヤギが飼われはじめたのだ。そのヤギを見にがてら自販機で缶コーヒーを買い、気が向けばコンビニまで行って朝刊を買う。
その家では広々とした庭でヤギを放し飼いにしておられて、敷地のほぼ半分をヤギに提供しているようなかたちで飼っている。早朝いくと閑静な住宅街にメーメーという鳴き声が響いていて、なかなかシュールだなといつも思う。ヤギは動物の中でも好きな方なのだけど、そこの家のヤギは人懐っこくて、近づくと寄ってきて草をあげるとムシャムシャ食べるので、とてもかわいいのだ。ヤギは鳴き声は小さいし、人によく懐くし、なるほどペットとしてかなりいいなと思う。西洋では悪魔の象徴みたいにされているヤギだけど、これほど人間に無害な動物もなかなかいないんじゃないか。
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牧場や動物園のふれあいひろば的なスペースのヤギはなんだか人馴れし過ぎているというか、業者的な対応をするヤギが多いような気がするのだけど、彼(彼女?)はそんなこともなく、素朴な感じがしてそれもまた良い。そんな彼の人柄(ヤギ柄)もあってか、物珍しさもあってか、見にいくといつも近所のおじさんおばさんがいて、ヤギを囲みながらみんなで談笑していたりする。運が良いと子供がヤギとたわむれているところを見れたりする。そこではヤギを中心に置いた地域のコミュニティ的なものが既に形成されているのだ。すごいぞヤギ。
コミュニティみたいなものは建築で作ろうとすると大変というか、なんとなく胡散くささがいつもつきまとうけど、なんだヤギ一匹で解決してしまうんじゃないかと、いつも感心するのだ。人の交流って、人間以外のものが中心にいた方が実はうまくいくんじゃないかと思うのだけど。

160403

ついに新年度が始まってしまった。大学院の1年目はものすごく早く過ぎる、とは聞いていたけど、実際ものすごく早くてびっくりしている。ただこの1年何もせずに過ごしてしまったというわけではなくて、思い返してみればいろいろやったなあとは思うのだけど、2年から卒業までの1年間はもっと早いという噂だから、時間を大切に過ごしていきたいと思う。このブログも含めて、できる限り色んなことをアウトプットしていければなと思う。

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年度終わりといえば、2016年の冬アニメもそろそろ全て終わったころだろうか。今期完走したのは、「灰と幻想のグリムガル」「この素晴らしい世界に祝福を!」「僕だけがいない街」「亜人」「GATE」。今期は僕の人生のなかでもかなり多忙な時期だったような気がするけど、それでも5作品くらいなら、就寝前の30分にご飯食べながらとか、空いた時間を使って見ることができた。

面白かったのは「グリムガル」と「このすば」かな。どちらもRPG的なゲームの世界に迷い込んでしまった、という最近ものすごく流行っている形式の物語で、そこは共通しているものの、内容は全く両極端だった。この形式が流行り始めたきっかけは、2012年の「ソードアート・オンライン」かなと思う。いわゆる「電脳世界」を題材にした物語は「攻殻機動隊」や「マトリックス」、「トロン」なんかはもちろんのこと、古くはウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」を始めとしたサイバーパンク系のSFからの定番ネタだった。僕らの子供の頃を思い出しても、デジモンの劇場版やゲームで言えば「.hack」「ロックマンエグゼ」とか、言い出したらきりがない。( ちなみに僕の読んだことのある小説のなかで、情報社会を異化したものして思い浮かぶのはトマス・ピンチョンの「Ⅴ.」だ。いつかブログの題材にしよう。)

この、ある種手垢のついた題材がやたらと取り上げられ始めたのは、ヴァーチャルの世界や人工知能といったこれまでSFの世界の題材でしかなかったものが、近年身近で実現可能な未来として認知され始めたからかもしれない。人工知能をめぐる問題なんかは最近やたら取り上げられるしね。

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閑話休題、今期アニメの話に戻ろう。このようにいままでSFの定番だったVRネタが、「ソードアート・オンライン」を皮切りにラノベやアニメによって消費されているというのが現状。そこでは、これまでサイバーパンク等で割合ハードコアに、大真面目に語られてきた個人/集団・人間/機械・体制への反発、みたいな思想が徹底的に破壊されて、萌えとギャグに転化されている。その極北が「このすば」だとすれば「グリムガル」は、近年のそのような傾向に反発するするような作品となっている。といっても過去のサイバーパンク的ハードコアに回帰しているわけではなくて、「グリムガル」はヴァーチャルな世界で展開される日常系ともいえる作品で、そこでは世界を救うとか、隠された真実を暴きだすみたいな大掛かりな物語転回はなく、あくまで異世界に飛ばされた主人公たちがその場所でどう生き抜いていくのかというところに視点が置かれている。何気なく登場するコップや鍋、武器がどこで売っていて、いくらで買えて、誰が作っているのかという情報が、絵で伝わってくるのが素晴らしい。それが物語の、しかも深夜アニメの主題となりうるんだ、という気づきは一週回って大きな驚きである。もちろん絵のクオリティなんかは通常より要求されるだろうけども。あと「グリムガル」は明らかに「Wizardry」を背景に置いていて、これもポイントが高い。MMORPGというよりは、ゲームブック的。

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そういえばカンタン・メイヤスーはSFを「science fiction」ではなく「speculative fiction」として、SF論を書いていたような気がする。アシモフあたりを取り上げていたような気がするけど、どこで読んだんだったけ。。メイヤスーではなくグラハム・ハーマンだったかもしれない。

ちなみにこのページ(http://www.mot-art-museum.jp/music/FlorianHecker-textjp-121023-fix1_2.pdf)でメイヤスののSF論を少し読むことができる。とてもおもしろいので時間があればぜひ。

 

160331 Ari Hoenig / The Pauper & the Magician

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待ちに待った、Ari Hoenigの新譜が今年の1月に出た。「Lines of Oppression」が2011年だから、5年ぶりということになるのかな。Ari HoenigはNYに拠点を置くドラマーで、コンテポラリー・ジャズにおけるもっとも重要なプレイヤーの1人だと思っている。彼はサイドマンとしても超一流で、最近でも「Kenny Werner / The Melody」(2015)、「Gael Horellou / Brooklyn」(2014)、「Morten Haxholm Quartet / Equilibrium」(2013)など様々なミュージシャンから引っ張りだこで、耳にする機会は多いのだけど、いかんせんそこではサイドに徹している演奏が多いので、リーダー作をずっと待ち焦がれていたのだ。

Ari Hoenig(Ds)、Gilad Hekselman(Gt)、Tivon Pennicott(Ts)、Orlando le Fleming(B)、Shai Maestro(P)というメンバーの今作。ヘクセルマンやシャイマエストロ、レフレミングなど、僕の大好きなミュージシャンで周りを固められているから、期待せずにはいられない。とくにヘクセルマンはKurt Rosenwinkel以降のギタリストの中でも頭一つ抜けていると思っている。テナーのティボーン・ペニコットは初めて聞く名だけど、調べてみたら1985年生まれと相当若いことがわかった。大学在学中にケニー・バレルクインテットに加わってたらしい。すげー。(http://www.tivonpennicott.com/bio-1/)。

ちなみに調べていて、シャイマエストロが1987年生まれということもわかり、ちょっとショックを受ける。4歳しか変わらないのか…ふええ…。アビシャイ・コーエンのトリオで活躍しているとき何歳だったんだろう、この人。ピアニストは早熟である。

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全6曲で、6曲目の「You Are My Sunshine」をのぞいて全てホーニッグのオリジナル。ホーニッグは相変わらずコンポーザーとしても超一流で、今回も名曲ぞろい。なんとなく全体的に中東感が強い気がするけど、ヘクセルマンに加えシャイマエストロが加わっていることも関係しているのだろうか(ふたりともイスラエル出身)。

1曲目は表題曲の「The Pauper & the Magician 」。テーマをリフレインしていく中で、リズムが有機的に、時にダイナミックに変化していくさまは、前作「Lines of Oppression」の「Arrows & Loops」を感じさせる。こういう曲の構造って、多分マイルスの「Nefertiti」が初出じゃあないかなと思う。「Nefertiti」はモダン・ジャズで最も美しい曲、かつモダン・ジャズを終わらせた曲だと思っている。フロントではなくリズム隊が曲の主役に躍り出て、従来のジャズの構造は大きく塗り替えられることとなった。ホーニッグはドラムで音階を作って(しかも怖いくらい正確な音程で)テーマを演奏するドラマーとしても有名だけど、それはまさしくフロント楽器とリズム隊とのヒエラルキーを解体していこうという試みともいえる。


*Ari Hoenig Solo* Jazz Drumming Perfection ;) Arirang JazzHeaven.com Instructional Video Excerpt

このアルバムも、フロントとリズム隊の主従関係が解体されて、両者が極めてフラットな状態で演奏が進む点がとても現代的だ。「The Pauper & the Magician 」では、ジャズでは一般的な形式である一定のコード進行上での即興演奏という場面がとても少ない。これはある意味クラシック的というか、ジャズの持っていた能動性が失われているように一見思えるけれど、多分そうじゃないんだな。楽曲がかなり精密に、形式的に構成されているからこそ、演者相互の関係性やリズムの揺れが浮き彫りになるというか…。ここでは即興というのが、コード進行の上で行われるゲームではなく、もっと微視的なものとして現れているような気がする。

2曲目は打って変わって4ビート。ヘクセルマン・マエストロ・ペニコットのフロント3人が、それぞれ短いパッセージで互いにくってかかりながら演奏が進む。これも前作の「Rythm-A-Ning」と同じ手法だよね。「Will Vinson / Stockholm Syndrome」(2010)に収録されている「Everything I Love」のLage LundとKendrick Scottのかけあいにも似たようなものを感じる(この演奏も素晴らしいのでぜひ聴いてみてほしい)。ぼくの大好きなパターンで、ジャズの形式性を崩していく、ずらしていく有効な手段だと思う。フリージャズのような完全な脱構築ではなく、従来の形式性を引き受けつつずらすというか、ほぐすというようなところが、なんとなく重要な気がする。これについては後日きっちりまとめよう。僕が建築でいまやろうとしているのもこういうことで、準-脱構築、あるいは準-構造の構築、みたいな。

3曲目の「The Other」は1曲目の続きのような、中東の雰囲気たっぷりな演奏。この曲が聴けただけでもこのアルバム買った価値あるよな、というくらい素晴らしい演奏。ライブの定番曲になるだろうなあ。クラシカルに始まるこの曲は、後半に行くにつれてプログレみたいな感じで展開していく。アツい。前半のマエストロのソロ、すさまじい。後半のヘクセルマンのソロも、Ben Monderばりのハイゲインでイケイケで最高である(ヘクセルマンのこんな演奏、相当珍しいと思う)。終盤は複数のテーマがポリリズミックに折り重なっていく。最高に格好いい。これが聴きたかったんだよ僕らは!!という感じだ。

4曲目「Lyric」、5曲目「Alana」と、落ち着いた雰囲気の曲が続く。ホーニッグは泣かせる曲を書くのもうまい。「Wedding Song」や「Remembering」然り。最後の6曲目は「You Are My Sunshine」。前述したホーニッグのメロディー奏法はここで聴ける。これまで変則的な演奏が続いてきたけど、あくまでジャズらしい曲でアルバムを締めくくるのが素晴らしいよね。僕らは常に新しい物が聴きたいと、あるいは生み出したいと思っているけど、オーセンティックな「ジャズ」ももちろん大好きなんだ。過去を破壊するのではなく、引き受けたうえで新しいものを作っていくというのがジャズらしいところというか、僕がジャズを好きな理由のひとつだと思う。古さを引き受けた新しさ、というか。ジャズは「終わった」ジャンルだよね、とドヤ顔でいう自称音楽通の人に僕はかつて出会ったことがあるけど(少なからずいるんだな)、今作はそういう人にぜひ聴いてみてもらいたいアルバムである。

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相変わらず素晴らしいアルバムだった今作。とはいえ6曲はちと短く感じるところ。ライブ聴きにこい!ってことかもしれないけど。あとテナーのティボーン・ペニコットにスポットを当てた曲がもう少しあってもよかったかなと思う。ちょっと存在感薄かったような。

それにしても今作で、改めてホーニッグの作曲能力の高さに驚かされた。彼だけではなく、Brian Blade然り、Antonio Sanchez然り、Mark Guiliana然り、コンテンポラリー・ジャズのドラマーたちはなぜこうも皆、コンポーザーとしても一流なんだろうか。

160329 存在論としての「建ち方」

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去年取り組んだ、大学院後期の設計課題の成果が本としてまとめられた。過去の著名な住宅作品を各自選定し、そこに隣接して新たな住宅を設計するという課題。選定した、いわゆる名作と呼ばれる住宅(東孝光の「塔の家」や安藤忠雄の「住吉の長屋」、篠原一男の「上原通りの住宅」などである)を現代的に再解釈するのはもちろん、それらと周辺の町並みとの関係を再考する、ということも課題の主旨であった。H越くんがプロの編集顔負けの仕事をこなしてくれたおかげで、なかなか素晴らしい仕上がりになっていると思う。これにともなって僕は序文を寄稿させていただいたのだけど、せっかくだからここで紹介しておきたいと思う。以下、その全文。

 

序文:存在論としての「建ち方」

 建築は、それ単体として存在することはできない。周囲の環境との相互作用のなかで絶えずもまれ、ゆがみ、平衡することでその存在を世界に定着させる。「この建物は建ち方がいい」という場合、大抵はその建物と周辺の環境との関係を指して、そしてそれらが共同してつくる全体性を指していう。とはいえ、「建ち方」というのは実は、なかなか定義の難しい概念だ。あるときは「配置」であり、あるときは「構え」である。でも、それは「建ち方」のある断面を示しているにすぎない。たとえば、コンテクストが一切存在しない場所があったとする。それをひとまず〈原-砂漠〉と呼ぶことにしよう。〈原-砂漠〉には、文化も歴史も存在しない。周囲に建物はなく、光も影もない。しかしそれでも建築は、それ単体で存在することは許されない。それはたとえばその建築の架構が、事実どこかに存在する大工が加工した柱や梁であり、どこか特定の山林から切りだされた木材であるからだ。建築を構成する大量の部品は、それぞれが異なるコンテクストを内包した、どうしようもなく具体的なオブジェクトである。複雑に絡み合う産業構造の網の目の中で、種々雑多な特定の物・者の活動の果てに、その結節点として建築は存在する。だからこそ〈原-砂漠〉においても、建築の物質としての実在を認める限り、「建ち方」という議論は成立しうる。「建ち方」は「配置」のしかたや、「構え」のありかただけを問うものではない。「建ち方」は建物の“存在のしかた”を問うもの、つまり建築における存在論である。

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 建築における存在論といえば、多木浩二の『生きられた家』が頭に浮かぶかもしれない。しかし多木がおこなったのは、建築を通して人間の生を、その存在の有様を考察することであった。一方、「建ち方」を考えるということは、「(人によって)生きられた家」ではなく、「(建築によって)生きられた都市」を考えるということになる。都市を通して、建築の存在を考察するのだ。このような〈建築〉を主語にするという態度は、一見すると奇妙である。それは無機物の集合体である建物に人格を与えるような態度であり、あたかも、世界における自立した存在者として建物を扱うような態度だからである。現状、そのような視点からの建築論はかなり稀少だろう。「建ち方」へのまなざしは、オブジェクト指向存在論を経由し、新たなしかたで建築を考察する可能性を秘めている。「建ち方」を建築それ自体の存在論として扱おう。簡単なことである。物事をよく見直そう。物と物の関係/無関係、物と人の関係/無関係をそのまま描こう。そこには建築家が思ってもいないような事態が、建築家たちも物・者の一つとしてはめこまれた光景がある。物質としての建築、それ自体を思考する可能性は、確かに存在している。僕たちが建物をどう捉えているか、ではない。僕たちの事情からはすっかり切り離して、〈無人の物自体〉に思考を及ばせること、だ。それは、カント以来の近現代哲学と、そこから多大な影響を受けているモダニズムの建築論一般においては、極めて困難な、いや、不可能なことになっている。しかし、「建築がどのようなしかたでそこに存在すればいいのか」という思考を巡らせたとき、僕たちは人間から見た建築の表象ではなく、物質としての建築それ自体の世界との関わりを考察している。そのとき僕たちはテクスチュアルな解釈の戯れを知らず知らずのうちに退け、相関主義をたやすく乗り越えてしまっているのだ。

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 まとめよう。「建ち方」とは、建築における存在論であった。そして「建ち方」を考えるということは、建築それ自身の〈全き他者〉としての物質性を肯定し、それらの関係性をつぶさに考察することであった。そのとき僕たちは、建築と世界との関係における思考のもうひとつの次元を、開きうる地平に立っている。

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 さて、「建ち方」へのまなざしということについてこれまで書いてきた。しかし今回僕たちが取り組んだのは、「建ち方」を考えるのと同時に、過去の住宅作品を再読することだった。この2つの、一見すると相容れない命題を同時に扱うということはどういうことなのだろうか。一方で特定の建物・建築家をリサーチし再読を試みながら、他方で〈外景〉としての建築のあり方を考えるということは、かなり矛盾した行為ではないだろうか。というのも、〈外景〉として建築を考えるということはつまり、建築家の設計した建物と、その隣に建つなんでもない民家を、どちらも等価な「周縁」として、まったくの同一平面上で捉えなければいけないということに他ならないからである。特殊なコンセプトで建てられた特定の建物を参照しつつ、しかしそのクリシェで終わってはいけない。あるいは、周辺の都市環境をよくリサーチしなければいけないけれど、単にコンテクストを丁寧に読み込んだだけの解答は認められない。その中庸を探り、矛盾と葛藤しながら各人が答えを見付け出す必要があった。しかも、時間が経てば環境は変わるから、その建物の周囲には、当初作家が意図していなかったものが建っていたりもして、その困難さをより際立てる。偶然に、なんの理由もなく、環境は変わる。しかし、現代建築を考える上でかなり重要な問題が、その矛盾と偶然性に潜んでいる。

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 僕たちが、ある建築の空間とそこに込められたコンセプトを理解することは、たやすい。しかしそれらと高速道路を、木賃アパートを、悪趣味な成金住宅を、商業ビルを、建売住宅を、しいては郵便ポストを、同一平面上で扱うことはとても難しい。でも、必要なのだ、絶対的に。都市の中では、それらは偶然にしてなんの理由もなく、しかも必然的に、隣り合ってしまうのだから。それらは、どうしようもなく確かに、今ここに存在しているのだから。少々大げさに言えばこのとき必要になるのは、ピラミッドとミースと洗濯機を、アアルトと目の前のコップとあなたを、正倉院と自転車と中性子を、篠原一男とアルミニウムと鳥小屋を、そしてそれら全てを、等価に測ることができる物差しであり、物差しになりうる軽やかな存在論である。僕たちの提案からは、そんな物差しの断片を垣間見ることができるはずだ。少なくともそのような読みを発生させる可能性を、それぞれの提案は持っている。

[ 編:大村高広 ]

 

160327

神奈川県立青少年センターをみた。とくに音楽堂のホワイエがヒジョーに良かった。プロポーションは適切で、スケールには節度があった。プロポーションとスケールの設定には、「倫理観」のようなものがつきまとうきがする。どこまっでやっていいか、という線引き。その線引きは美学的なセンスというよりは、判断に伴う社会的な倫理観、共通感覚のようなものだと思っている。公共施設はこのくらいの規模で、さらには"群"として作られるべきだと、改めて感じる。ホール、やりたかったなぁ。






160324 人類学者のスケール論②

人類学は、20世紀後半にはすでに、多元的な世界についての見方からポスト多元的と呼べるような見方へと移行している。私の説明もこの意向に倣ったものである。無数のパースペクティヴが生み出す増殖効果への気づきは、置換効果への気づきへと至り、そこではいかなるパースペクティヴも想定とは異なり、(加算することで辿り着けるような)全体的な眺望を提供することはできないことが感知される。ポスト多元主義の人類学は遠近法的であることをやめているのである。(pp.26-27)

西洋の多元主義(プルーラリズム)、あるいは遠近法的世界観(パースペクティヴァリズム)への批判は、「部分的つながり」における通奏低音だといえる。多元主義/遠近法に基づく世界では、複数の視点を加算していくことである全体を獲得できるということが想定されている。ストラザーンのいう「複雑さの増大可能性」は、この想定に無理があるということを、わかりやすく示してくれる。

「千葉の地理情報」を再び例に出そう。千葉県のある部分の詳細を拡大して眺めたとき、僕らは「千葉の地理情報」における詳細情報を手に入れることとなる。あるいは千葉県を一歩引いて眺めたときもまた、「千葉の地理情報」における新たな情報を手に入れることとなる。パースペクティブを切り替えるたびに、僕らは事象に関する新たな情報を手に入れてしまう。「千葉の地理情報」のもつ複雑さ(情報量)は、スケール操作のたびに増大してしまう。どこまで詳細に、あるいは広域に観察すれば、「充分」なんだろうか。いや、どこまでいっても「充分」とはいえないような気がする。

これが「複雑さの増大可能性」がもたらす問題だ。ポジションを変更するたび、僕らは事象に関する異なる複雑さを認識してしまう。言い方を変えれば、ポジションの変更それ自体が、事象の複雑さを発生させている。異なるスケールを自由に跳躍できることが近代主義の大いなる成果であったということは、すでに書いた。でもこの成果のおかげで、僕らはある事象における複雑さ(情報量)が無限に存在している、という問題に直面し、参ってしまうこととなる。

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重要度の高い情報が中心にあって、そこそこ重要な情報がその近くにあり、中心から離れるほどあまり重要でない情報が現れる。従来はこのようなツリー状の構造により、無限に広がる情報を体系化し、組織化していた。情報の序列化である。このとき、中心にいけばいくほど抽象度のレベルも上がっていく。つまり中心にあるのはモデル・類型であり、周辺にあるのはより具体的な情報で、この場合、中心(モデル・類型)が特定できれば、たとえ周縁の具体的情報が無限に存在していたとしてもあまり問題にならない。中心の重要かつ抽象度の高い情報が把握できていて、そのまわりのデータがある程度そろっていれば、もうその現象に関しては「充分わかった」ということとなる。これが、従来の多元主義・遠近法的世界における「複雑さの無限発生問題」への対処方法である。言い方を変えれば、ある現象を切り取って組織化しようとしたとき、中心を伴ったツリー状の構造、あるいは初発の原理に基づいた系譜的な構造をベースにせざるを得ない、ということになろう。

しかしここには2点問題がある。まず、このような対処方法を前提としたとき、僕らは全く中心が存在しないような現象を、論理的にはとらえられないことになってしまう、という問題。この問題は人類学者が実際に直面していて、近年のメラネシアにおける研究がその一例であるらしい。(実際にこのような“不釣り合い”に直面したからこそ、ストラザーンの問題提起が生まれたのだろう)。分析している文化や社会における価値や特徴に中心性がなく、ランダムであるとき、僕らはなすすべがない。もう一つは、「同じ価値や特徴が多様な文化や社会のまったく異なるレベルで現れてくる」という問題。ある地域の文化や現象を体系化しようとしたとき、僕らは特定のパースペクティブ(つまり特定のスケール)から導き出される情報を中心に据えることで、その地域・現象の特異性を記述することができる。例えばある地域を部族を分析し、そこで氏族集団間における財産の交換に特徴的なモデルを発見したとしよう。データをツリー状に組織化するという前提を踏まえると、異なるスケールから得られる情報はあくまでそのモデルを補足し、付随するものでなければならないはずだ。しかしこの時、個人間での財産取引においてモデルと同一のパターンやデータが反復するという事態がありうるらしい。というか、近年の人類学においてそれは「よくあること」だから、非常に困ってしまっている、ということなのだろう。部族間と個人間という、異なるスケールのパースペクティヴに、同一のパターンが発生してしまう。この場合、その地域の部族に関する情報を組織化しする際に中心に来るはずだった財産交換におけるモデルが、中心として相応しくない=不釣り合いだ、ということになってしまう。

いずれの場合においても、僕らはこのような問題に直面したとき、現象を組織化できない(ツリー状の構造が維持できない)ということになる。現象を組織化できなければ、僕らは「複雑さの無限発生問題」を回避できなくなる。断片的・部分的情報でしかその現象を認知できず、「客観的な理解と定義」が不可能なように思えてしまい、しいては「とらえどころがないなあ」と嘆くしかなくなってしまうのだ。

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言わずもがな、いま僕らが直面している「限界=有限性」は、多元的な世界についての見方に基づいている。「複数の視点を加算していくことである全体を獲得できるという想定」の限界である。多元的な世界、それはつまり遠近法的な世界であり、モダニズム的な世界であって、ここではそれらの有限性が明確な問題として浮かび上がっている。ストラザーンは「フラクタル」を参照することでこの有限性を鮮やかに乗り越えて見せるのだけど、それについてはまた次回。

そういえばこの問題、いわゆる「無限後退」と呼ばれる問題と、ほぼ同じ内容を扱っているように思う。「無限後退」を乗り越えるためには、「複数の有限性」に着目するしかないなぁなんて漠然と考えていたけど、これについても後日、ストラザーンを引き受けたうえでしっかり書きたいと思う。何しろこれは、あまりにも簡単に情報が手に入ってしまう僕らにとって、とても切実な問題だから。

160323 人類学者のスケール論①

現在僕は、所属している研究室で長年行われてきた「スケール(尺度)」についての研究をまとめ、8月を目処に出版することを目指して作業している。そういうこともあって、マリリン・ストラザーンの「部分的つながり」(水声社)の冒頭で展開される「スケール」についての記述は非常に刺激的だった。本書に度々登場する「スケール(尺度)」や「プロポーション(釣り合い)」、「パースペクティブ」といった言葉は、建築畑の僕らにとってはとても馴染み深いものだ。しかし僕らがある種、反射的・制度的に捉えてしまうそれらの用語の定義と、人類学者によるそれは微妙に異なっていて、これは大変示唆に富む部分だった。まだこの本を最後まで読んでいるわけでもないので多少フライング気味だけど、ストラザーンの「スケール」について、一度まとめておこうと思う。

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スケールを変化させるという言葉で、私は、人類学者が資料を組織化するときに決まってする、現象に対するひとつのパースペクティヴからから他のパースペクティヴへの切り替えを指している。このパースペクティヴの切り替えが可能なのは、世界が本来的に複数の存在ーー多様な個体や集合や関係性ーーから構成されているという自然観があるからである。そして、それら構成要素の特徴は分析の枠組みに基づいて常に部分的にしか記述できないとされている。 (p.22)

 人類学者の仕事の多くは、対象に関する膨大な情報をいかにして組織化していくか、ということに費やされる。観察者がどのように資料を照らし合わせ体系化するのか、ということに注目したときに「スケール」が問題となるのだけど、これは人類学者固有の振る舞いとかいうわけではなくて、僕らが物事に関してある観察を行うときに普通に行っていることだ。例えば「千葉の地理情報」ついて調べようとしたとき、僕らは日本の中で千葉がどの辺に位置しているのかという問題と、千葉のなかにはどのような市町村が存在していて、それらはどういった位置関係にあるのかという問題、あるいは東京から館林までの距離といった問題など、異なる視点(パースペクティヴ)から「千葉の地理情報」を調べるということを、ごくごく自然に行う。異なる視点から得られる断片的な情報をつなぎあわせて「千葉の地理情報」という全体を獲得しようとする。このような、ある物事を観察し分析するときにおこなう、レンズの倍率を変化させるようなスケールを行き来、パースペクティヴの切り替えこそが、人類学が問題とする「スケール」ということになる。このようなスケール(尺度)・パースペクティヴ(視点)を自由にスイッチするスキルは、西洋の多元主義(モダニズム、といってもいいはずだ)が手に入れた重要な成果であることは言うに及ばない。この「知の対象や、探求の対象へのパースペクティヴの組織化」を「スケール」と表現するのはストラザーン独自のものだと思うけど、かなりしっくりくるなという感じがする。本書全般から感じることだけど、彼女は物事をすごく空間的にとらえているように思う。というか、空間的なセンスが凄くある人なんだろうな。

ストラザーンはこの「スケール」について2つの水準があることを指摘している。ひとつは「規模の設定(マグニフィケイション)」で、もうひとつは「領域の設定(ドメイニング)」だ。「規模の設定」は単純で、視野の大きさを変化させること、つまり僕たちが1/100の図面と1/1000の図面を行き来するような、比較・検討の際のスケールの規模の切り替えを指している。「千葉の地理情報」を分析する際に、世界地図なのか、あるいは日本地図なのか、はたまた住宅地図なのか、どの縮尺の地図で分析するかがここでの問題になる。一方「領域の設定」では、「千葉の地理情報」を「距離」の問題として分析するのか(さらにそれが時間的な距離なのか空間的な距離なのか)、あるいは歴史的・政治的な地域区分として問題とするのか、片や経済と再生産の問題からあつかうのか、が問題となる。つまり対象の分野的・領域的な差異がここでの論点となる。この2つが、僕らが事物に対してポジションをとるしかたのうちの、基本的な性質といえる。

 * * *

さて、この「スケール」あるいは「スケールを行き来するスキル」というのはあくまで手法であり、さらに近代以降の世界に生きる僕らが普段当たり前に行っていることで、通常人類学の世界では表沙汰にならないはずの問題だ。それよりも、この近代的なスキルを用いて組織化された民族誌的な記述を、いかにして比較・検討・解釈・分析し、その結果何が明らかになったのかが、人類学における主要な内容(コンテンツ)となるはずである。しかしストラザーンは明らかに、コンテンツではなく手法を問題にしようとしている。(まさにwithout contents、である。)その必要があったのは、多分彼女の実感として、既存の人類学(=従来の多元主義、遠近法的世界観、広い意味での近代主義)に限界がきていたから、なんだと思う。